身体を起こす事は叶わず、一人になったは何とか寝返りを打つと、数刻前と同じように足で床を蹴り腕で身体を引き摺りどうにか戸口まで辿り着いた。それからは壁伝いに慎重に足を運びながら正寝へ向かう。
辿り着くまでに夜が明けるのではないかと思うほどに今のにはその道のりが果てしなかったが、それでもどうにか辿り着く事が出来た。
やはり主の部屋の前には警護の者が居り、血の滲む腹を押さえ夜着のまま出歩くに戸惑いながらも先へは行かせまいと引きとめようとする。
開け放たれた戸口のの視界を遮る御簾の奥からはゆらりと炎が揺れて見えた。その火に中の人影も揺れて写る。
「構わん」と主の声が部屋の奥から聞えるとの前から男達は退いた。
室内に入り一歩足を踏み出すごとにの息が上がる。
几帳の向こう側へとやっと回り込むと、知盛は宴の時のまま純白の直衣を纏い、寛いだ様子で肘掛にもたれ一人酒盃を傾けていた。
「今宵は観月の夜だった。一人静かに月を愛でるのも良い物だな・・・」
知盛は手酌で酒盃を満たすと再びゆったりと口元まで運ぶ。
邸の主の部屋としては質素といえるほどに用に適った最低限の調度品が置かれただけで、あとは知盛自身が見事な彫り物のようにがらりとした部屋に硬質の花を添えている。格子戸から注ぐ白い光が冴え冴えとした知盛の美しさを際立たせていた。の血の穢れが直衣を汚していたが、それが些かも気にならないほどに知盛の纏う空気は清浄に澄み、それ故にはそれ以上は近寄りがたかった。
その場では几帳の柱に手をかけ身体の負担を和らげる。
一つ大きく息を吸い込みは口を開いた。声の震えを抑えるのに苦労した。
「・・・・私は、実の母を知らない。父を知らない。自分の年すらもわからぬ」
これからするのは自分の身を切り刻むような告白だ。
知盛は一度目線だけをに向けたが、の言葉を遮るでもなく促すでもなく変わらぬ姿勢でゆっくりと酒盃を傾けた。
「自分の飢えを満たす術も持たず、死ぬのを待つだけの貧里の親なし子だった。だが、ただ少し見目が良いというだけで犬猫の仔のように、あの男に拾われた」
あの男が自分の父ではないと分るほどにはは大きかった。
だが、暖かい家に住まわせられ、腹を満たしてもらえた事を素直に嬉しいと思った。それからはあの男がの世界の全てとなった。
実の父とまで思い慕っていたのだ。
だが、男は数年経つとに牙を向いた。
信頼しきっていた相手に乱暴に花を散らされ、幼いの心には深く傷が刻まれた。
だが一晩明ければ男は済まなかった、もう二度としないと泣きながらに謝りつづける。とて、この男から離れて生きる手立てなど無かった。
酷く扱われ、泣いて縋られ、それを一年も繰り返す内にの心は痛みを忘れた。
ただ食い永らえるために男の慰み者に甘んじた。
の心も壊れたが、を散々に嬲りながら男の心も少しずつ狂っていった。
への執着を男は年々強め、を豪奢な檻の中に閉じ込めた。
何が欲しい。の望むもの全てを与えようほどに。
興味の無い金銀や玉を与えては関心を引こうとする男をあしらう為の、の戯言が男の命を奪う事となった。
戯言と気付かぬほど、男の心はよりも壊れていたのかもしれない。
そうして閉塞した箱の中でぐずぐずと腐り朽ち果てていくのを待っていたは、あの夜知盛に出会った。
まるで自分の身に起きた事をもう一度なぞるかのような、にとって苦行のような告白は終った。
「父を、あの男を唆し道を失わせたのは私だ。浅ましいこの身を斬って捨てるなり、お前の好きにしろ・・・・」
ここまで語るだけで、激しく息が上がった。崩れ落ちそうになる身体をは懸命に奮い立たせて知盛を見る。
これで全てが終ったのだとは沙汰を待つ心持ちでいたのだが、いつしか酒盃を下に置きこちらを見据えていた知盛はの胸を突く事を言った。
「奢るも甚だしい」
咄嗟に返す言葉も無かった。
「お前はそれほどに力のある者か。あの男の一生を自分が左右したと本気で思っているのか。由仁王は自ら道を選び、自ら滅んだ。その生き様は褒められなくとも誰のものでもない、あの男だけの一生だ」
知盛の言葉にの指先から熱が奪われていくようだった。
知盛はの自己憐憫を、不幸の中にいる自己への陶酔を抉るように弾劾し、終末を求めるを容赦しなかった。
このまま消えてしまいたい。知盛の前で己という存在はあまりにも醜く矮小で、知盛の前に居続ける事には気力を振り絞らなければならなかった。
、未だ死にたいか」
ゆらりと知盛は音も無く立ち上がり、几帳に惨めに取り縋ると真正面から向き合う。
「未だに己自身を貶め、恥じる心は消えないか」
いつしか体の辛さも忘れ、は一語一句聞き漏らすまいと息を詰めていた。
全ての音が無くなったかのような静寂。
その中で知盛の声だけがの胸に迫る。
「お前はそれでも、死にもせずにその地獄を今まで生き延びたのだろう。何人も責める事は許されぬ、それがお前の生き様だ」
一瞬の間を置いて、はきつく口を引き結んだ。
力の限り奥歯を噛み締める。
そうでもしなければ聞き苦しい嗚咽が喉元から漏れてしまう。
「これから俺が行くのは死ぬよりも惨い修羅だ。それでも、俺と共に来るか」
「行く、お前と・・!」
足が思うように動かず、はまろぶようにして知盛へと手を伸ばす。
知盛の鋭い眼差しが一瞬和らいだように見えた。
差し出された知盛の手を掴もうとしては前方に崩れる。板の間に崩れ落ちてしまう前に知盛の力強い腕がの身体を引き上げた。
「知盛、知盛っ・・・」
は懸命に知盛の胸元にしがみ付く。

知盛がに応えるようにその両腕をきつくの背に回す。
今まで生きてきて、が自ら欲したただ一つの物だ。
この手を二度と放すものか。
幼いが生き抜くためには全てを耐え忍ぶしかなかった。だが、それと同時に辱めを受けながら逃げ出さない自分を恥じていた。
誰に蔑まれようが耐え忍ぼうが、知盛に蔑みの目を向けられる事は耐えられないと思った。
自分の汚濁の全てを知った上で受け入れて欲しいと、知盛にいつしかそこまで願うようになった。
今思えばあの夜、奈落の底から自分を引き上げてくれる唯一の光が来たと、は銀の煌めきに一瞬で魅入られていた。

己の穢れは消す事は出来ないが、赦されたかった。
自分を縛る檻を壊してくれた力強い光明。
自分は知盛に赦されたかったのだ。






水の底に沈みこむような深い眠りだった。
は水面に浮かび上がるように心地良く目覚めた。
自分の耳の下にはとくとくと脈打つ暖かな鼓動がある。
うつ伏せていたはゆっくりと身体を起こすと自分を抱きこんだまま眠り続ける知盛を見下ろした。
朝日に照らされけぶるような睫は細かな光を弾いて輝いていた。
昨夜は互いの体温を分けるようにして眠りについた。
知盛とこのように穏やかに朝を向かえる日が来るなど。
はそっと自分の口唇を知盛の硬質の薄い口唇に押し当てる。
顔を起こしかけた時には銀の睫のむこうから薄っすらと菫色の瞳が覗いていた。
「これは、僥倖・・・」
を見て、夢のように知盛の双眸が撓む。
恋い慕う相手と穏やかに朝を迎える日が来るなど、込み上げる嬉しさに泣く日が来るなど。
はこれまで思いもしなかった。
無き濡れる顔を隠すようには知盛の胸元に顔を埋める。
は慕い人の手を握り直すと再びまどろみの中に落ちていった。



























観桜の宴。
知盛の邸では御簾の全てを取り払い南棟の舞台を囲むようにして一門各々が腰を下ろし、雅楽を楽しみ、贅を凝らした酒膳を楽しんでいた。
庭園の池に沿うようにして植えられた桜は盛りを過ぎ、吹雪のようにあたり一面に花弁を散らしている。
花びらが風に舞い上がれば人々はそれを目で追い、見事と囃し立てる。
「兄上」
見れば重衡がすぐ傍まで来ていた。
「お久しぶりです」
「そうでもなかろう。あれからまだ、半年ほどだ」
「・・・お変わりも無く、何よりです」
重衡は宴の席を見回すと一点に視線を定めた。
その視線の先では宴の外れでがぽつりと腰を下ろし、散る桜に埋もれるようにしていた。一人きり所在無さげにしているかというと、そのような事も無く悠然と花びらが吹雪く様を楽しんでいる。
花吹雪が止めば薄桃の花弁の中からの真紅の単が鮮やかに現れる。他の女達が春めいた薄緑などを好んで身につけている中、曼珠沙華を纏ったかのようなはいつにも増して人目を引く。
「もし少しでもご様子に憂いがあるようでしたら、今度こそ私の邸にお連れしようと決めておりました」
「あてが、外れたか」
鋭く自分を見つめる重衡を前に知盛は喉で一つ笑うと酒盃をゆっくりと傾けた。
重衡はこの一件はここで切り上げ、静かに知盛の隣に腰を下ろす。
それ以後は兄弟二人、他愛の無い話をしながら和やかに宴は続いていたが、ガラガラとけたたましい音がして二人は揃って音の方を見やった。
騒ぎの中心はだった。
見ればの膝上や身の周りには黒漆の汁椀が散乱している。
座り込んだままのの傍らには悪びれもせずに突っ立ったままでいる膳を持った端女と、少し離れた場所には口元を袖で押さえ何やら耳打ちしあっている女達がいる。
「あれは・・!わざとではありませんか」
重衡がのもとに向かおうとするのを知盛が止める。
「兄上!」
不穏な空気を感じ取り楽師達も奏でる音色を止めると、静まる宴の席の中視線はさらにを遠巻きにする女達に集まった。
しばらくは大人しく汁の屑を払っていた。
知盛も重衡も過去にが受けた辱めを派手に仕返しした事を良く覚えている。
またが激昂するのかとも思っていたが、口を開いたは落ち着いた様子だった。
「お前達の主は誰だ」
静かには問う。
女達は目配せをして笑いさざめく声を高くした。
「お前達が仕える主は誰かと聞いている。あの、上座に座る男か」
そう、は知盛を指した。その態度は不遜であり、宴の席全体が唸るようにざわめいた。
「まあ、今更にそんな事を尋ねるなど。御気は確かでいらっしゃるのでしょうか」
女が一人嘲笑と共に応えると笑い声はますます高くなった。
はにこりともせずに女達を見据えている。
凍りつくような宴の席の中で知盛だけが傾ける酒盃の陰で楽しげに口角を吊り上げていた。
火のような女だと思った。
風雨に晒されれば萎れて身を隠して見せるが、その実は息を吹き返す機会を強かに待ち続けている。
その性はしなやかな若い獣のような焔だ。
「ならばその中身の無い頭に叩き込んでおけ。私のこの身は髪一筋に至るまで知盛の物だ」
今その焔が息を吹き返そうとしている。
大きくも無いが凛としたの声は良く通った。
その激しい火流に乗り、誰もが見上げるほどの高みまで上り詰めるか。
あるいはその炎に自ら焼かれて二人共に煉獄へと落ちるか。
どちらに転んでも面白い。
「私を辱めるのならば今後はお前達の主に斬って捨てられる覚悟をしてくるのだな。この痴れ者どもが!」
の一喝は宴の間に響いた。
女達はの勢いに飲まれたように固まっている。
なんという増長と、一笑に付す事が出来ぬ凄みがにはあった。
がらがらと椀を足元に落としながらが立ち上がる。椀が立てる音にも頓着しないのがらしい。
「無粋に騒ぎ立て申し訳ない。各々方、ごゆるりと花を愛でられよ」
宴の席を去り際、宴の間を見渡しは艶然と微笑む。
もともとの顔立ちの美しさと相まって、身に纏う鮮やかな紅を打ち消すほどの壮絶なの色香にその場に居合わせた者は悉く目を奪われた。




紅蓮の業火が天高く昇る。




  完