7
世話をしていた家族の子供が一度に二人も居なくなった。
口減らしの為に何処かに貰われていったのならまだ良かった。父親に尋ねれば真夏の最中に風邪をこじらせて二人とも亡くなったのだそうだ。
薬を調合する間、犬の仔のように自分の周りを転げまわっていた愛くるしい幼子達が思い出され弁慶の胸が詰まる。
「薬は、効かなかったのですか・・・」
父親が体調を崩したときに熱冷ましになる薬草を充分に置いていったはずだ。
父親は無言で俯く。
代わりに一人残された子供が小さな声で答えた。薬は全て食べ物に換えてしまったのだと。
自分が望むようにこの世はならない。
弁慶の渡した薬を受け取った者が、その後それをどう使おうが弁慶が口を挟める事ではない。その者それぞれに大事は違うのだ。
体力の無い幼子二人を切り捨てて父親と残された子が生き延びようとした事も弁慶が責めることは出来ない。
これまでに何度も弁慶は自分の無力を痛感してきた。
そして今度も新たな痛みを伴って己の非力さは弁慶を打ちのめした。
自分のした事が全くの無駄だったとは思わない。でも幼子二人を救うには及ばなかった。
仕方の無いことなのだと頭で分かってはいても心も身体も鉛のように重くなり、心の方は地中深くに引きずり込まれて近年に無いほど弁慶は落ち込んだ。
だから純粋で真っ直で、この世の不合理を知らず未来に夢を抱く遮那王にはどうしても会えなかった。
挫折を知らず、自分は何者にもなれると期待に胸を膨らませる遮那王を傲慢だとすら思った。
逆恨みもいい所だ。
物思いに沈んでいた弁慶が傍に横たわる遮那王を見れば、閉じられていた大きな瞳は開かれてひたと弁慶を見つめていた。いつの間にやら再び弁慶の衣の裾を遮那王は握り締めている。
遮那王の稚い仕草に思わず弁慶の口元が綻ぶ。
「ん・・・」
少し体温の低い弁慶の掌が首筋に当てられて遮那王は微かに身を捩った。遮那王の身体の火照りが取れた事に弁慶は安堵する。
「遮那王、済みませんでした」
弁慶の謝罪に零れ落ちそうなほどに遮那王の瞳が見開かれた。
「どうして弁慶が謝る。俺が弁慶を怒らせていたのだろう?」
「違いますよ」
身体を起こそうとする遮那王の肩を優しく押し、弁慶は再び遮那王を横たわらせた。
「みっともない八つ当たりを君にしてしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」
「何があったんだ」
八つ当たりされた事を怒るよりも、何があったのかと遮那王は弁慶の身を按ずる。遮那王は優しい。
「自分は全く何の力も持たない、小さな人間だと改めて思い知ったのです。だから君が羨ましかったのですよ」
「何を言っているんだ。弁慶は俺よりも強くて、俺よりも色んな事を知っているじゃないか。力が無いなんて事はない。それに背丈だって俺よりずっとある」
「そうですね、でもそれだけです。僕は矮小で何も持たないつまらない人間です。だから君の傍に居ない方が良いと思ったんです」
引かれた若木の枝がしなるように今度こそ遮那王は起き上がり弁慶に飛びつく。
「やっぱり弁慶は俺の事が嫌いになったんだ。俺が小さくて力も弱いから一緒に稽古するのが退屈になったんだ!」
ううん、と弁慶が唸る。
どうも話が噛み合わなくなってきた。こうも話を取り違えられると考えすぎて鬱々としていた自分が馬鹿みたいだ。
「どうして俺から離れるなんて言うんだ。俺こそ全く何も持っていない!俺には弁慶だけなのにっ」
「・・・君には君を想ってくれる人達が傍に居るじゃないですか」
「先生も、蓮忍さまも、覚日さまも優しくしてくれる。でも外から鞍馬山に会いに来てくれたのは弁慶だけだ。弁慶もいつか俺を置いて何処かに行ってしまうのか?」
「遮那王・・・」
弁慶は返す言葉も無く自分に取りすがる遮那王の小さな手に自分の手を重ねた。
遮那王は小さな頃に母君と離れ離れになったのだと聞いた。だが寂しさを紛らすだけならば遮那王を庇護する大人達が周りに居る。
どうしてここまで遮那王は自分を望んでくれるのか。自分など何の取り得も無い人間なのに。
「僕は君が思うほどに出来た人間では、全く無いのですよ。愚かで、卑怯で、醜い・・・」
ああ、自分は怒っていたのではなく怖かったのだと、弁慶は思い至った。
自分の浅ましさや至らなさを遮那王に気付かれ、落胆されるのが怖かったのだ。
微塵の疑問も抱かずに自分に羨望の眼差しを向けてくる遮那王の傍は心苦しく、居た堪れなくなってしまった。
その恐怖を遮那王への憤りにすり替えて、自分の心すら欺こうとした。
自分という人間は、本当にどうしようもない。
苦い笑みとともに遮那王を見ると、遮那王は弁慶の後方を見透すかのように遠い目をして何やら思案している様子だった。
「そんな事は無いと思うが、もしそうだとしても俺は弁慶を嫌いにならない。弁慶が何も持たないというのなら俺が弁慶の物になる。だから弁慶も俺に全てをくれ。お互いに何も持たないのなら二人で一緒にいれば少しはましになるだろう?」
「何を、言って・・・」
「俺は本気だ」
子供の言う事だ、笑って退けなければ遮那王の心の隙に付け入ることになる。遮那王は孤独を持て余して目の前に現れた弁慶に飛びついただけだ。
だが自分の本心は、狂おしいほどに遮那王を望んでいる。
「・・・後悔しますよ」
「自分の決めたことだ。後悔なんてしない!」
弁慶が示してやろうとする逃げ道を、遮那王は強い眼差しで自ら閉ざした。
もう弁慶は自分の心を抑える事が出来なかった。
「全く君は、何てことを言うんですか」
遮那王の細い肩を弁慶は思い切り抱きしめる。遮那王もほっそりとした両腕を懸命に弁慶の背中に回す。
「後悔しても、知りませんからね」
「後悔などしないと言っている!」
弁慶の胸の中でくぐもった叫びを遮那王があげた。
「遮那王・・・」
弁慶の声に顔を上げた遮那王の口をゆっくりと塞ぐ。遮那王は抵抗しなかった。
くたりと力が抜けた遮那王をそっと草の上に横たわらせると弁慶はもう一度遮那王に口付ける。
これまでにない深い口付けに遮那王は苦しげに喘ぐ。
「鼻で息をすればいいのですよ」
そう言われても上手く息継ぎが出来ずにいる遮那王の唇を開放してやると弁慶の口付けは耳から首筋へと動いていく。
「弁慶、駄目だ。汗を沢山かいたから、汚い」
「聞きませんよ」
舌先を喉元に這わせるとひくりと遮那王の身体が震えた。
合わせ目を開くと珊瑚色の可愛らしい胸の飾りが覗く。
「べ、ん・・慶・・」
胸の突起に吸い付き更に尖らせるように舌先で転がすと、それを堪えるように遮那王が両足を擦り合わせる。
「あ、あっ・・」
遮那王の足を開かせその間に身体を割り込ませてみれば、遮那王の幼い雄が硬く脈打っているのが感じられた。弁慶は焦らす事無く遮那王の袴の紐を解くと遮那王の若い茎に直に触れそれを扱き始めた。
「あ、うんっ・・、や、あっ、ああっ・・!」
弁慶に煽られるままに遮那王は身を捩り啼き声を上げる。幼い遮那王はひとたまりも無かった。
「ああっ・・・!」
細い腰をがくがくと揺らしたと思うと遮那王は弁慶の手の中に若い精を迸らせた。
袴から腕を引き抜くと弁慶の掌を真珠色の蜜がしっとりと濡らしていた。
それをぺろりと舐め取ると遮那王の顔は茹で上がったように真っ赤になる。
「駄目だ、弁慶。汚いから」
弁慶は遮那王に微笑むと緩んだ袴を下にずり下げて遮那王の吐精で濡れそぼったままの雄を外気に晒した。
「汚くなんかないですよ」
思わず腰を引きかける遮那王を逆に引き寄せて、薄桃色の遮那王の若い茎を躊躇い無く弁慶は口に引き入れた。
「や・・、やっ、あ・・」
弁慶の口内で遮那王の雄はすぐさましなやかに力を取り戻す。先端の柔らかな肉を吸い上げてやれば刺激が強すぎるのか内股を引きつらせながら遮那王は足裏で土を掻く。
紅色の肉の割れ目から蜜が溢れるそばから弁慶は熱心にそれを吸い上げ、その刺激にまた遮那王は啼く。
ひくりひくりと収縮を繰り返す菊座を指の腹で揉んでやればそれだけで遮那王の雄は更に硬さを増したが、一度達したからか今度は我慢が利くようだった。
「ここまでするつもりは、なかったのですが」
遮那王以上に弁慶も、心身ともにどうしようもなく昂ぶっている。
力の入らぬ遮那王を簡単にひっくり返すと乱れた衣を更にはだけさせて弁慶は遮那王の腰を引き上げた。
肉の薄い真っ白な尻の肉を左右に開けばすぐに遮那王の濃い紅色の肉の環が顔を覗かせた。慎ましく口を閉じた紅色の窄まりに弁慶は舌を這わせたっぷりと唾液で濡らしていく。
「や、嫌だ・・、弁慶っ・・!」
「聞かないと、いったでしょう」
身を捩り逃げようとする遮那王の雄を背後から握り、ゆるゆると扱いてやると途端に遮那王の身体から力が抜ける。
両手を立てられず腰だけを突き上げて四つ這いになっている自分がどれほど淫らな体勢を取らされているのか遮那王には気付く余裕もない。
舌先を尖らせて肉筒の中まで舌を差し込むと柔らかな肉は蠕動して弁慶を更に奥へと誘い込んでいるようだった。
たっぷりと唾液を注ぎ込んでから伸縮を確かめるように指を少しずつ増やし何度も肉の環に差し入れる。滑りを助けるように途中から薬油を少しずつ足し、弁慶はゆっくりと遮那王の菊花を解していく。異物が蠢く感覚がおぞましいのか遮那王はひ、ひ、と指が動くたびに声を上げ、それでもいじらしく弁慶の仕打ちを堪えている。指三本が楽に入るようになってから弁慶は自分の指を引き抜き猛る自身を遮那王の後口に宛がった。
「あぁーっ・・!」
遮那王が高い声を上げる。
弁慶は一息に自分の張出した先端を遮那王の中に収めてしまった。じっくりと進めると返って遮那王の負担になる。
「くるし・・、べん、け・・いっ・・」
息も絶え絶えに訴える遮那王の背に覆いかぶさり、弁慶は更に猛る己の雄を遮那王の奥深くに進ませる。
「・・・遮那王、誓います」
乱れた髪を顔に張り付かせ浅い呼吸を繰り返す遮那王の耳に弁慶は囁く。
「この身も心も、生涯君に捧げると誓います・・・」
すっかり収めてしまった自分の肉茎で最奥を軽く突くように腰を揺らすとそれに答えるように遮那王の肉襞が弁慶に絡みつく。
「おれ、俺もだ、弁慶・・、あっ、あっ・・」
徐々に抜き差しの幅を大きくしていくと弁慶の手の中で力を失った遮那王の雄が再びかなり撓り始め、遮那王が感じているのが苦痛だけではないと弁慶にも分かった。
硬く引き締まり、茎に添うようにして持ち上がった遮那王の双球の裏側を突くようにして腰を振り下ろせば弁慶を食い締めるようにして遮那王の肉筒がきつく締まる。
「ひ、あっ・・!」
ぶるりと遮那王の腰が震えると同時に弁慶の右手が熱く濡れた。
「くっ・・」
遂情してきつく締まる遮那王の秘肉に数度自分の肉茎を扱くように潜らせると弁慶も引き摺られるように遮那王の最奥に精を叩きつけた。
しっとりと汗に濡れて半ば気を失った遮那王を自分の身体に抱き上げるようにして弁慶はその場に寝転がる。
辺りに立ち上る草いきれが未だに真昼の熱気を残しながらも日はだいぶ傾いていた。
「遮那王」
嫌だと泣く遮那王を許さずに半ば無理やりに契りを交わしてしまった。
身体だけではなく、心も傷つけてしまったのではないかと不安に思う弁慶が遮那王の額の汗を掌で拭い髪を払ってやると、遮那王は薄く微笑み弁慶の胸の上にくたりと頭を預けてくる。その重みが心地よい。
遮那王が満ち足りたように眠りに落ちるのを見て弁慶もほっとした。
この時弁慶はとても幸福で、けれども遮那王から交わされた誓いは夏の熱に浮かされた一時の物だとも思っていた。
「ただいま戻りました!」
行きは期待と不安がない交ぜで心細い一人きりの道中だったが、鞍馬山への帰り道は覚日とともに幸西から蓮忍への書状を託された弁慶も加わり遮那王にとっては楽しい物になった。弁慶が覚日に対して複雑に思う所があるなどと、遮那王が知る由もない。
「お帰りなさい。無事に戻りましたね」
本尊を前に瞑目していた蓮忍が遮那王の元気な声に顔を上げた。
勢い良く本堂に飛び込んだ遮那王を抱きとめて蓮忍が微笑む。
「俺には一言もないのか」
まるで数年ぶりの再会のようにひしと抱き合う蓮忍と遮那王を見て、まさに数年ぶりに鞍馬寺に帰ってきた覚日は不満げに零す。
ひとしきり遮那王との再会を喜んだ蓮忍はようやく本堂の入り口で寡黙に佇む青年に気付いた。
「この子の無二の友というのは、貴方ですね」
「武蔵坊弁慶です」
蓮忍に応えて弁慶は深々と頭を下げる。
「覚日、弁慶殿を母屋にご案内して休んで頂いて下さい。手の空いている者にお茶の用意をさせて」
「はいはい」
やっと声がかかったと思えば小坊主のように雑事を頼まれて覚日は面白くない。
「覚日も良く無事に帰りました。待っていましたよ」
齢四十を超えている筈だが年齢不詳、衰えぬ美貌を持つ覚日の師は覚日の扱いを良く心得ている。
そう言って蓮忍に微笑まれては照れ隠しに短く刈られた強い髪を荒々しく掻き回すことしか覚日は出来なくなるのだ。
ニヤリと、自分を見て口角を持ち上げた弁慶を悔し紛れに小突きながら覚日は母屋へと向かった。
「それでは俺も」
弁慶の後を追おうとした遮那王を蓮忍が引き止める。
「遮那王には私からお話があります」
いつもと変わらない様子の穏やかな蓮忍ではあったのだが、遮那王は小首を傾げた。
蓮忍の私室に通されて、先客がいることに遮那王は気付いた。
藺草の良い香りがする整った蓮忍の私室の中で、その男は全くそこに溶け込む事無く大きな存在感を示していた。肌は日に焼けて覚日よりも浅黒く、灰色の頭髪をひっ詰めて頭の天辺で丸めている。ずんぐりとした男の体躯は粗末な麻の直垂に覆われ、その直垂を青い小袴に着込めてその上から袖のない赤い上衣を着込んでいる。その赤の上衣は妙にその男に似合っていた。体型と同様に顔も上から押したように四角かったが、男の小さな目はくりくりと真ん丸く可愛らしいと言えない事もない。
「吉次殿、お待たせして申し訳ありません。こちらが遮那王です」
「これは良い顔をした御子だ」
吉次と呼ばれた男は遮那王を見て屈託なく笑った。
自分を遮那王と男に紹介した蓮忍に再び遮那王は驚く。
「そんなに見開いては零れ落ちてしまいますよ」
大きく見開いた自分の目を蓮忍に揶揄され、赤面した遮那王は男に笑われながら蓮忍の正面に腰を下ろした。
男は笑うといかつい印象が薄れひどく人懐こい顔になる。興味津々の体で遮那王の顔を覗き込んでくるので遮那王も遠慮する事無く男の奇妙で愛嬌のある顔をじっくりと眺めた。
「おや、お互いに気に入ったようですね」
そんな訳ではなかったが、否定するのも無礼かと口ごもる遮那王をそのままに蓮忍は話を進める。
「遮那王、この方は吉次信高殿。毎年奥州に下り商いをしていらっしゃるお方です」
「遮那王殿、以後よしなに」
ずいぶんと年上であろう吉次に頭を下げられて遮那王も吉次に習い慌てて頭を下げる。
「遮那王、もう十五になりましたね」
「はい」
「とっくに元服も済ませて大人として扱わねばなりませんでしたが、一日でも長くと私の勝手でその日を引き延ばしてしまいました。けれども遮那王、これからどうするのかを今日、決めなくてはなりません」
蓮忍の顔が厳しく引き締まったものになり、遮那王も緊張して居住まいを正す。
「道は二つです。世俗を捨て仏門に下るか、あるいは自分の出自を明らかにして吉次殿と山を降るか。遮那王、自分で選びなさい」
「・・・山を降りたら、蓮忍さまとはもう会えないのですか」
泣きそうな顔の遮那王がそう尋ねた事で蓮忍は遮那王からの答えを得た。
確かに落胆を覚えもしたが、自分という存在の意義を求め、迷い、武芸の鍛錬に没頭していく遮那王を傍で見てきたのは他の誰でもない蓮忍だ。
その遮那王が自ら選んだ道だ。蓮忍は笑って遮那王の背中を押してやらねば。
「いいえ、いいえ、遮那王」
吉次の前でも憚らずに蓮忍は遮那王を抱き寄せる。
「この鞍馬山には遮那王に閉ざす門は一つたりともありません。いつでも遮那王の好きな時においでなさい」
「はい」
遮那王は安心したように一息つくと吉次の存在を思い出し、そそくさと自分の円座へと戻った。
吉次は気にせずに今後の話を始める。
「安心なさい、遮那王殿。奥州は藤原の御館様が是非に遮那王殿を迎え入れたいと仰られた。お父上とも古くから交流があったお方だから、きっと貴方を守ってくださる」
「父上・・・?」
「遮那王殿のお父上は源義朝様。貴方が生まれて間もなくお亡くなりになられた。貴方の母君は今は敵方の手の中に在る。この世は貴方のお父上の仇の治世になっているのです。貴方のご兄弟も散り散りに世間からは身を隠している、あるいは隠されている。遮那王殿はあまりにも幼く、母君の嘆願もあり仏門に下るという条件でその身の自由を約されていたのですよ。山を降りるというのならば、平家の示した約を違えるという事。それなりの覚悟をなされよ」
「父上は、既に亡くなられた・・・」
洪水のように流れ込む吉次の言は、その一つ一つに驚くばかりで遮那王は噛み砕くのに酷く時間がかかる。
「貴方の叔父上から大切な御名をお預かりしてきた。山を降ると覚悟された今日から貴方は源義経、仮名を九郎と名乗られよ」
「源九郎、義経」
「よろしい」
吉次が小さな目を細めてにいと笑った。
今日この日、遮那王は源九郎義経と名を改めた。
「叔父上は無事でいらっしゃるのだろうか」
「正しくは九郎殿の異母兄でいらっしゃる頼朝殿の叔父上ですが、お元気ですよ。奥州へ下る途中立ち寄ってみましょう」
熱に浮かされたように赤い顔の九郎はこくりと頷く。
「さあ、二日後には出立しますよ。再びこの地を訪れるのはいつになるやら。九郎殿、色々と整理をされて憂いなきよう頼みますよ」
「わかった!」
元来、悩む性質ではない。九郎はすっくと立ち上がると振りかぶって蓮忍と吉次に頭を下げ、襖も閉めずに部屋を飛び出していった。
「ははは、全く物怖じしない良い御子だ。源氏の名を頭に抱いてその重みに潰れる事もないでしょう」
「ええ、本当に良い子なのですよ」
九郎を見送る蓮忍には既に寂しさの陰りはない。
解き放たれた九郎がどのように大空を羽ばたくのか、九郎の成長が心から楽しみだと蓮忍は思った。
覚日は弁慶をもてなす気はさらさら無いようで、小坊主が茶の用意をするのを見届けるとふらりと母屋を出て行ってしまった。
母屋の縁側に下りて、鞍馬寺の手入れの行き届いた庭を一人眺めていた弁慶の下に元気な駆け足が近づいてくる。
「弁慶!」
「遮那王」
勢い込んで弁慶に飛びつく遮那王を弁慶はしっかりと抱きとめたつもりだったが、二人してもんどりうって縁側に転がってしまった。
構わずに仰向けの弁慶に乗り上げ、遮那王はまくし立てる。
「俺は今日から九郎だ。源九郎義経。そう呼んでくれ」
「九郎、ですか・・・」
遮那王は源氏縁の者であったのかと弁慶は驚いた。
その九郎は弁慶の胸の上で勢い良く頷く。
「俺は二日後に奥州へ下る。だから弁慶も色々と身の回りの整理をして憂いのない様にしておけよ!」
吉次に言われた事をそっくりと九郎は弁慶に言った。
弁慶が考える暇も与えずに、興奮冷めやらぬまま九郎は矢継ぎ早に弁慶に用件だけ伝えると弾む毬のようにまた何処かに駆けていってしまった。
「俺達は何処へ行くにも一緒なんだからな!」
去り際に弁慶を振り返り九郎が叫ぶ。
「はは・・」
一人残された弁慶は笑うしかない。弁慶は縁側に仰向けのまま良く晴れた空を見上げた。
空は幾分高くなり、まだ暑気は去らないが鱗のように連なる小さな雲がこれから訪れる秋を感じさせた。
九郎と出会ってからまだ三月と経っていない。しかし、短い時間の中でこのような運命としか呼べぬ縁も生まれるのだ。
契りを交わしはしたが、いつかは九郎と袂を分かつ日が来ると弁慶は覚悟していた。しかし九郎は弁慶の覚悟をいとも簡単に役に立たない物にしてくれた。
これまでと変わらぬ態度で弁慶と接しながらも、九郎がしっかりと交わした誓いを覚えていてくれた事が心の底から嬉しいと思う。
平氏が権勢を誇るこの時代に、自分の出自を知りながら逃げる事無く九郎は山を降りる。それならば自分はこの身に代えても九郎を守ろう。
何処までも高く透き通る青空に、再び弁慶は誓いを立てた。
弁慶と別れた後、九郎は師の庵を訪ねた。しかし以前訪れた時と同じまま、庵は静寂を保っていて師の不在を示していた。
ろくに使うこともなかった自分の硯で墨を擦り、九郎はリズヴァーンへ長い手紙を書いた。自分の悪筆の凄まじさに書の練習を怠った事を激しく後悔しながら何とか手紙を書き終える。剣の手ほどきをしてくれたことへの感謝。剣以外にも様々な教えを授けてくれた事への感謝。自分は昔も今もこれからも師を敬愛し続ける事。明日奥州へ発つ事。いつの日か、必ず会いに戻る事。
稚拙な文ながらも思いの丈を素直に綴り、九郎はその手紙を庵の戸口へ挟み込んだ。
これは今生の別れではない。
必ず自分は師と再び会える。
庵に向けて一礼し、九郎は鞍馬寺へと通り慣れた獣道を下った。
坂を転がるようにして話が進み、二晩明けて奥州出立の日となった。
「忘れ物はありませんか。腐った物は口にはしないのですよ。古い水もいけません。病には充分気をつけて」
「腕の立つ薬師が一緒なんだから心配すんなよ」
苦笑交じりに覚日が蓮忍を嗜める。
「弁慶、よろしく頼む」
「ええ」
からかいの色もなく真剣に頼まれた弁慶は覚日にしっかりと頷く。
「蓮忍さま、覚日さま、行って参ります!」
中門まで見送りに来てくれた二人に九郎は手を振る。
長らく暮らした鞍馬寺を離れる寂しさよりも、今九郎の胸はこれから向かう奥州を思い高まるばかりだった。
長い道中の初めから駆け出さんばかりの九郎を笑いながら弁慶が追いかける。
「それでは、必ず御館様の元へお連れいたします」
吉次は蓮忍と覚日に一礼する。
商売道具の大きな行李をしっかりと背負い、吉次も九郎と弁慶の後をゆっくりと歩き始めた。
「近くにいらっしゃるのでしょう?最後にお会いになればよろしかろうに。今からでも遅くない」
鞍馬寺の仁王門を過ぎてから、前方遠くに九郎と弁慶を見つつ吉次は誰にともなく呟く。
「・・・いや、いい」
声は参道脇に生える、見事な杉並木の頭上何処からか聞こえては来るのだが、声の主の姿は見えない。
姿は見たことはないが奥州からの道中、吉次はこの深く響く声の持ち主に危うい所を助けられた。
一度山賊などに襲われれば行商人は命を請うために荷の全てを差し出さなければいけない。奥州から京までの道中、運悪く賊と遭遇した吉次が行李を投げ出し頭を抱えて震えていると、踏み潰された蛙の鳴き声のような無様な声が自分の周りで上がる。恐る恐る顔を上げると辺りでは賊ども数人が倒れ、残りは既に逃げ去っている。荷は無事だった。
得体の知れない影に怯える吉次に、この影は鞍馬山の天狗だと名乗ったのだ。
鞍馬山に辿り着くまで守ると、低く落ち着いた声で天狗は吉次に告げた。
「九郎殿と親しくしていらしたのでしょう?そうでなければ私を守ってここまで連れてきてくれる道理がない。そう外れた事は言っちゃいないでしょう?」
「・・・私は陰に生きる者だ。日の光の中を歩き出した九郎と関わるのは好ましくない。だが・・・もし、心から九郎が望めばいつの日か再び会う事もあるだろう」
それきり、吉次が話しかけても天狗からの返事はなかった。
天狗は山へ帰ったのだろう。
遥か遠くに跳ねるように歩く九郎と弁慶が見える。
「やれやれ、元気なことだ」
吉次は行李を背負いなおすとしっかりとした足取りで参道を降りていった。
助走もつけずに九郎は思い切り駆け出した。
これからの新しい生活に胸が高鳴り、気持ちだけが逸る。身体が弾けてしまいそうでじっとしていられない。
九郎が弁慶に手をのばす。
「行こう、弁慶!」
「ええ、君と一緒なら何処へでも」
弁慶はしっかりと九郎の手を取った。
抜けるような青空は雲一つなくどこまでも広がり、前方に見える道は果てなく続く。
二人の行く先を遮る物は何もない。
完