神泉苑での雨乞いの儀も無事に執り行われ京邸に戻ろうかという時。
ひっそりと池の辺に佇む者に九郎は気付いた。
その者の装いは白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀を携えた白拍子の物で、男装をしてはいたがその背格好の華奢な様子から女性である事がわかる。
その清々とした佇まいは九郎の目を惹き付けた。
しかし、姿勢を正して真っ直ぐに前を見据えてはいるがその者の顔色は優れず、胸元で握り締められた両の手の甲も血色を無くしている。
「おい、どうかしたのか」
その白拍子はよほど深く物思いに深けていたのか、九郎の声に大きく肩を揺らした。
黒目がちの愛らしい目が九郎に向けられる。
「顔色が優れぬようだが、大丈夫か」
「・・・・はい」
白拍子の声は高すぎずしっとりと耳に心地よく、儀式の最中特に人目を引いていた舞手の一人だと九郎は思い出した。
目の前の白拍子は九郎の肩にようやく背丈が届くかというほどで、舞台の上で堂々と舞を披露していた者と同一人物とは思えない。
青白い顔をしたまま白拍子は健気にも九郎に微笑んで見せる。
「お武家様、ありがとうございます。たいした事はございませんのでお気遣い無く・・・」
「だが・・・・」
大丈夫な様子には到底思えない。
しかし、今にも倒れそうな様子で居ながらも白拍子は頑なに大丈夫だと言い張る。
「部屋を借りて休んでいってはどうだ。連れの者は居ないのか?」
弱っている女人を捨て置くことも出来ず九郎は休息所になりそうな場所に案内しようとしたが、思いのほか強く白拍子にその手を掴まれて動きを止めた。
九郎の手を掴んだ白拍子の手は全く熱が無くひんやりとして、九郎の申し出を拒絶している。
「もうすぐ迎えが参りますので、お構いなく」
「迎えが来るのか」
「ええ・・・。法皇様の使いの方が・・・・」
九郎はなんと返すべきか言葉を失った。
この白拍子は後白河院に見初められて召し抱えられる直前だったのだ。
白拍子の中には安定した生活が約束されると喜んで貴族達の専属になるものもいたが、中には身売りのようにして泣く泣く身分の高い者達に召し抱えられる者もいる。
専属の白拍子になるといってもその中身は純粋な舞手としてだけでなく、遊女として夜の勤めを果たす意味合いも含まれているからだ。
この白拍子はとても喜んで後白河院の元へ向かうようには見えない。
返答に窮する九郎を前に、今度は白拍子は自然な笑みを綻ばせた。
「よく・・あることです。気になさらずに・・・・。ただ」
「・・・ただ?」
白拍子はふいと空を仰ぎ見たので九郎もつられるように先程の夕立が嘘のように晴れあがった空を見上げた。
「私は天涯孤独の身ですから別離を惜しむ家族もおりませんが、ただ・・・自由を手放さなくてはならない事だけが辛いのです」
白拍子の横顔はあまりにも儚げで、我に返った時、九郎はそのほっそりとした白拍子の手を取っていた。
「一つ聞く」
「お武家様?」
「後白河院に召し抱えられる白拍子はお前の他にいるのか」
「はい・・・二人ほど居りますが」
「その者たちの様子はどうだ」
九郎の問いに白拍子は悲しげに目を伏せた。
「あの法皇様のお傍にいけるのですから、本当であれば他の娘達のように私も喜ばなければいけないのでしょうが・・・」
「そうか」
言うなり九郎は自分の着ていた上衣を白拍子に被せ、その身をすっぽりと隠してしまった。
「お武家様?!な、何を」
「じっとしていろ」
白拍子の頭上にあった立烏帽子を取り払ってしまい、九郎は腕の中にその白拍子を抱きかかえそのまま馬上の人となる。
「あっ」
「静かにしていろというのに」
九郎に抱えられてとはいえ、不安定な馬の背に視界も遮られて座らせられた白拍子は慌ててぎゅうと九郎の胸にしがみ付いてくる。
騒ぎを聞きつけたのか見張りの者たちが九郎の元へ駆け寄ってきた。
「どうかされましたか」
「いや、大丈夫だ。連れの者が体調を崩してしまったのだ。今日はこれで失礼する」
見張りの者達が一礼するその脇を九郎は白拍子を抱えたまま馬で走り抜けた。
走る馬の振動に怯えてか更に強く白拍子は九郎にしがみ付いてくる。
その心細げな、幼い子供のような仕草に思わず九郎の口角がゆるりと上がる。
まずは京邸まで戻って、話はそれから。
日の暮れかかった邸までの道を九郎は急いだ。




はっきり言えば衝動に駆られての行為だった。
何故と問われても、自分でも良くは分からない。
人助けのつもりだったかもしれないが、やった事は人攫いと大して違いは無い。
白拍子も驚いてはいたが、それに負けないほどに九郎自身も呆然としていた。
頭の中は混乱を来していたので、八葉と神子達の前で九郎の口数は少ない。
「それで、九郎としては放っては置けずにこの方を連れてきてしまったのですね」
「そうだ」
弁慶の問いに九郎は言葉少なに答える。
「このお嬢さんを連れ出すとき、誰にも見られませんでしたか?」
「それは、大丈夫だ」
「まあ、いいんじゃないの〜?その子も落ち着くまでここに居たら良いよ」
九郎と弁慶のやり取りに景時が割って入った。
「色々あって疲れちゃったでしょ?朔、部屋で休ませてあげて」
九郎はハッとした。
見れば白拍子の顔色は神泉苑で会った頃のまま陶器のように真っ白だった。
「そうだな、まずゆっくり休んでくれ」
「そうですね、お話はその後で。ところで九郎、このお嬢さんのお名前は?」
弁慶に問われて九郎は再びハッとする。
「お前・・・、名はなんと言う?」
「九郎・・・・」
「九郎殿・・・」
弁慶は額を押さえて、朔は呆れたようにため息を零す。
、と申します」
は美しい所作で一同に頭を下げた。
「俺の事は九郎と呼んでくれ」
九郎に向けて再びは深く頭を下げる。
その場でのお互いの自己紹介があらかた済むと、は朔と神子と連れだってその部屋を後にした。


それから各自部屋に戻り、その場には弁慶と九郎の二人が残った。
「女子供は戦の邪魔になると言っていませんでしたか?」
「・・・・」
「九郎にしてはとても珍しい事をしましたねえ」
「俺もそう思う」
おや、と驚いたように弁慶の片眉が上がる。
しかし宙を睨むようにして考え事をしている九郎にはそれは見えなかった。
「自由で居られなくなるのが、辛いと言っていたのだ」
その事を幼少の頃の自分の境遇と無意識に重ねてしまったのかもしれない。
無言になってしまった九郎の肩を宥めるように弁慶が軽く叩く。
「九郎、お疲れ様でした。雨乞いの儀式から一日、貴族の方々の相手はくたびれたでしょう?」
「・・・そうかもな」
自分は疲れていたのだ。
普段使わない気を使い減らしておかしな行動を取ってしまったのか。
九郎は軽く頭を一振りする。
さんの身の降り方は責任を持って考えてあげましょう。酷い言い方かもしれませんが、白拍子が一人消えたくらいで後白河院とその取り巻き達が騒ぐことも無いでしょうから」
その弁慶の物言いに九郎の眉間の皺が深くなる。
「言葉が悪かったようですが、僕は別に彼女に偏見は持っていません。一人で生きてきた強い女性だと思います。だからこそ、これから彼女が思うままに生活できるよう、僕達で手助けをしてあげられたらいいですね・・・」
「・・・そうだな」
弁慶の言葉が本心だとわかり九郎は身体の力を抜いた。
「勝手の分からない所に突然連れてこられて心細い思いをしているでしょう。休む前に一度彼女に声をかけてあげてくださいね」
「わかった」
薬師として大勢の人間に接しているからなのか、弁慶は人の心の機微に敏感で気配りも細やかだ。
こういう部分は少しでも見習わねばと九郎は思う。
九郎は早速の部屋に向かった。
、居るか」
小さな返事がしたので部屋の戸を開けると、中には白拍子の衣装を着替えて薄紫の袖丈の短い小袖を身に纏ったが静かに座っていた。
舞台の上ではとても大きく見えたのに、今目の前にいるはとても小さく見える。
天涯孤独だと言っていた。
自分よりも年下であろうこの少女一体何があったのか。
が不思議そうに小首を傾げたので、を言葉も無く見つめ続けていた九郎は取り繕うように一つ咳払いをする。
「その、不自由なことは特に無いか」
「はい。朔様にも神子様にもとても良くして頂いて」
「そうか・・・・」
正面に腰を据えた九郎をは静かに見つめ返している。
顔色は昼に会った時よりも幾分良くなっているようだ。
「迷惑だったろうか・・・・。お前の意思に関係なくここまで連れてきてしまった」
はゆっくりと笑顔を九郎に向ける。
このように相手に気遣う為だけのの笑顔を九郎は今日一日だけで何度見ただろうか。
「感謝こそすれ、どうして迷惑だなどと思ったりするでしょう。九郎様、本当にありがとうございます」
「いや・・・」
何故か、人当たりの良い応対ではあるが、は自分との間に一線を引いているように九郎には感じられた。
その事が思いの外、九郎の気分を重いものにさせた。
「もし、行く当てが無いのなら俺達と一緒に来るか」
「九郎様・・・・」
「危険な目には遭わぬ様、俺が責任を持って新しい生活の場所まで連れて行く。もう京には居られないだろう」
「そうですね・・・・」
は後白河院の命を破り逃げ出した格好になっているだろう。
ある意味、京に居られなくしてしまったのは九郎自身だ。
それに思いあたって九郎は目線を伏せたまま上げられなくなる。
身寄りが無いとは言え、今まで暮らしていた場所だ。
親しくしていた者達も居ただろうに。
その九郎の考えを打ち消すように耳障りの良い声がした。
「よろしくお願い致します」
顔をあげれば、目の前には指をつき九郎に向けて頭を下げているの姿があった。
「そんなに畏まるな。俺が勝手に連れてきてしまったのだ。面倒ごとに巻き込まれてしまったと、もっと大きな顔をしていれば良い」
九郎は本気で言っていたのだが、は一瞬目を丸くすると今度は鈴の転がるような可愛らしい笑い声を立てた。
の表情にはじめて鮮やかな色が差したようで九郎は思わず目を見張った。
「ありがとうございます。九郎様は楽しい方ですね」
「た、楽しいか。そんな事は今まで言われたことなど無いが」
「・・・九郎様はお優しい方ですね」
の笑みが深くなり、九郎はそれだけで言葉に詰まる。
「不束者ではありますが、どうぞよろしくお願い致します」
「いや、楽にしていてくれればいい・・・・」
最早会話も噛み合っていないが九郎にはそれに気付く余裕は無い。
「夜分にすまなかった。ゆっくり休んでくれ」
「はい」
自分に向けられる黒曜石の瞳は緩やかに撓み、血色の良くなった小さな唇も形良く両端が上がっている。
これがこの娘の心からの笑みなのだろう。
今更ながら、はとても美しい娘なのだと九郎は思った。
これほどの美しさを持ち合わせていれば、遅かれ早かれ何処かの貴族の目には止まっていただろう。
攫うように連れてきてしまったが、これで良かったと九郎は自分に言い聞かせる。
いつしかこの娘が心穏やかに暮らせる場所を作ってやろう。
そう思うと同時に不思議な心の高揚を九郎は感じていた。
何がきっかけだったのか、が自分に対する心の垣根を取り払ってくれたように思えた。
その事がただただ、嬉しかったのだ。



それから数日して三草山に平家が軍を集めているという情報が入り、九郎の身辺は一気に慌しくなった。
源氏の軍を預かる将として全神経を集中させ九郎は連日連夜策を練っていた。
の事が時々は頭を過ったが、戦が終わるまではとその考えを振り払い九郎は準備に取り掛かっていた。
そうこうしている間にと会わずに一週間が経った。
三草山に進軍したその夜。
戦の直前になってやっと幾許かの時間が取れた九郎はの姿を探していた。
陣地の後方、食料や備品を管理する備蓄庫には居た。
は一人ではなかった。
薬草の整理をしながら、は弁慶と和やかに話をしている。
の表情は穏やかで柔らかく、最初に会った夜のの笑顔を思い出させた。
途端に九郎の心は氷片が滑り込んだかのようにシンと冷えた。
その一方で何かドロドロとした物が九郎の身体の中をせり上がって来る。
声もかけられずに二人を見ていた九郎に先に気付いたのは弁慶だった。
「九郎、どうしたんですか?」
「いや・・・・」
ほんとうに、どうしたというのか。
何の用も無いというのに、のこのこと此処まで出向いてしまったのだ。
ただ、に会えればという、その一念だけで。
そのは、自分が居なくても仲間と上手く打ち解けて楽しくやっているらしい。
元来人当たりも良く、気立ての良い娘だ。
自分がわざわざ心配してやる必要はもう無いのだろう。
「九郎様」
にこりと、が微笑む。
その笑顔すら今の九郎には心に苛立ちを生ませる物だった。
急速に負の感情が湧き起こるのを押さえる事が出来ない。
「九郎様、お久しぶりです・・・。少し、お痩せになったのでは?食事はしっかりと取られていますか?」
その笑顔も、気遣いも。
九郎一人だけのものではないのだ。
「お前に心配してもらわなくても良い。自分の管理くらい出来る」
考える前に言葉が飛び出していた。
一度声に乗せた言葉は取り消せない。
「九郎」
弁慶が責めるような目で九郎を見る。
言い過ぎてしまった。すまなかった、と。
すぐに謝らなければと思うのに、今度は九郎の口は鉛のように重くなり開こうとしない。
「そんな言い方は無いでしょう。さんは毎日九郎の事を心配していましたよ。不義理をして七日も会いに来なかった九郎は少し冷たすぎるのではないですか?」
同じように軍議に参加して、その上薬の調達にまで動いていたというのに。
弁慶は忙殺されている合間にもと会っていたというのか。
その事が更に九郎の心をささくれ立たせる。
「あの・・。弁慶様、いいのです」
がそう言った事で九朗がこの場で謝る機会は失われた。
「九郎様、出すぎた真似をいたしました。申し訳ありません・・・・」
は九郎に深々と頭を下げた。
表情は窺い知ることは出来ないが、の声音は震えている。
「九郎」
謝れと弁慶に促される。
しかし、先程までの笑顔を享受していた弁慶の前だからこそ、九郎は素直になる事が出来ない。
「夜半にも平家の陣に攻め込む。後方で大人しくしていろ。フラフラと出歩かれて足を引っ張られては迷惑だ」
「九郎!」
の返事を待たずに九郎は踵を返した。
最後にチラリと見えたの顔は。
顔色をなくしたその顔は、泣いてはいなかったか・・・・。
一瞬垣間見ただけの、の悲しげな表情がいつまでも九郎の目の裏に焼き付いて消えなかった。





 
その後の戦いは酷いものだった。
結果的には源氏の勝利に終わったが、気分が荒ぶり前方に一人突出しようとしては九郎は弁慶や景時に諌められ引き戻された。
不注意で身体には作らずに済んだであろう傷をいくつも負い、暴走気味の九郎のあおりを受けて兵の中にも幾人か負傷者が出た。
源氏の陣に戻ってから、静かに自分を見据えている弁慶を前にさすがに九郎の頭も冷えた。
「九郎、ごらんなさい」
負傷者を収容した陣地には幾人もの兵が身体を横たえている。
「この中には避けることの叶わなかった犠牲もありますが、九郎。あなたがいつも通りに冷静であればもっと負傷者は少なくて済んだでしょう。鎌倉殿の名代として源氏の軍をあなたは預かっているのです。九郎が揺らいでしまってはその事が軍の損失につながる」
「済まなかった・・・・」
「謝る相手は僕ではないでしょう」
九郎と弁慶の背後に遠慮がちに近付いてくる気配がある。
・・・・」
振り向けば薬草と清潔な布が入った籠を抱えたが立っている。
「弁慶様、頼まれていた物です」
は小さく九郎に向かって微笑むと籠を弁慶に手渡した。
さん、あなたも働き詰めで疲れたでしょう。少し休んだ方がいい」
「いいえ、大丈夫です」
躊躇いながらも、は九郎と向き合う。
「九郎様。無事のお戻りを、嬉しく思います」
別れる前にあれほどに酷い言葉をぶつけたというのに、は九郎の前で健気に笑って見せる。
「ああ・・・・」
九郎からは次の言葉が出てこない。
「まあ・・。九郎様、あちこちにお怪我を・・・・。手当てをさせてくださいますか?」
痛ましそうに、の眉根が寄る。
が先程の自分を責める事なく気遣いを見せるたびに、自分の人間の器の小ささをつきつけられる様で九郎は居た堪れない。
「大丈夫だ。少し・・・・、頭を冷やしてくる」
「九郎様・・・・・」
また悲しげにの瞳が伏せられた。
今の自分には、に気遣ってもらう資格など無いのだ。
九郎は何も言わずにその場を離れた。



自分の狭量さに情けなくなる。
が自分以外の人間と仲睦まじく接していたことに心を乱されて、戦局にもあわや影響が出るところだった。
久しぶりに会えたというのに、自分はから笑顔を奪ってしまう。
泣かせたいわけでは決してない。
あの夜のように、心から笑っていて欲しいだけなのだ。
自分が傍にいては、は笑う事が出来ないのだろうか。
結局は考えも纏まらぬまま九郎は陣に戻った。
陣に戻った九郎に弁慶は驚いて目を見張っている。
「九郎、一人だったんですか・・・・?」
弁慶の声は不自然に強張っている。
「どういうことだ」
さんが、手当てをしたいとあなたの後を追って・・・・」
聞き終わる前に九郎はもと来た道を駆け出していた。
なにやら弁慶が背後で叫んでいたが、それを九郎の耳は拾うことは出来なかった。
何ということだろう。
戦場から遠く離れているとはいえ、この辺りにははぐれた怨霊も徘徊している。
落ち延びた平家の兵もいるかもしれない。
どこだ。どこにいる。
!」
堪らずに九朗が名を呼ぶ。
もし、このまま会えなかったら。
血の気がざっと下がり、上手く呼吸が出来ない。
!」
まだ伝えていない事がある。
頼む、無事で居てくれ。
山の奥深くにまで九郎は踏み入っていた。
その少し先の山間の突然に開けた草原で一つの人影が立ち上がった。
その人影が自分に向かって緩やかに手を振っている。
「九郎さ・・・・」
ばさりと薬草が入っていた籠が足元に落ちる。
「・・・・・・」
九郎は両の腕でしっかりとを抱きしめた。
全身が心臓になってしまったかのようで、九郎の頭の中で心音がうるさく響く。
「馬鹿・・・。戦場を一人で歩き回る奴があるか・・・」
「九郎、様・・・」
細い身体だ。
これ以上、力を込めれば折れてしまうかもしれない。それでも九郎は腕の力を緩める事が出来なかった。
両腕の震えはなかなか収まらない。
その事はだって気付いているだろう。
「良かった・・。無事だったか・・・・」
「申し訳ありません。薬草が群生している場所を見つけてしまって・・・・」
「お前に何かあったら、俺は・・・・・」
が一人でいると知らされた瞬間の、心臓が握りつぶされそうなほどの苦しさ。
あんな思いは二度としたくない。
が無事だったことに安堵して、みっともないことに目頭まで熱くなってくる。
それを隠すために九郎はの首筋に鼻を埋めた。
ピクリとの身体は震えたが九郎を拒絶することは無かった。
「もう分かっていると思うが。俺は心が狭くて、小さな人間なんだ・・・・。お前が楽しげに弁慶と話しているのを見て、酷い事を言ってしまった。お前が・・・誰かに微笑みかけるのも嫌だ。誰かと楽しげに話をするのも嫌だ。そう・・・思ってしまう」
意を決して九郎は顔を起こし、を真正面から見つめた。
「俺が、傍にいるのが不快なら・・・そう言ってくれ。もうお前には近付かない」
がどんな顔をしているのかと思えば。
その表情は風一つ吹かない湖面のように、穏やかに凪いでいた。
は、九郎様をお慕いしております」
耳から入ってきたの言葉を、頭で理解するのに少し時間がかかった。
瞠目してを見下ろし続ける九郎を前に、は一際笑みを深くしてもう一度同じ言の葉を声に乗せる。
は、九郎様をお慕いしております」
「は・・・」
止めていた呼吸をようやく九郎は吐き出した。
「本当なのか・・・」
「はい、本当に。は・・・・」
三度目の言葉を紡ぐ前に九郎はの唇を塞ぎ、その言葉を奪った。
ようやく腕から解放してやれば、の頬は月光の青白い光の中でも赤く上気しているのが分かる。
九郎と目が合うとは恥ずかしそうに目を伏せた。
その初々しい様子に愛しさが再び込み上げてきて、九郎は一度解放したを再び腕の中に囲ってしまう。
、いいのか。一度言った言葉は撤回させないぞ」
「九郎様こそ。私などで、よろしいのですか・・・」
「お前がいいのだ」
今まで生きてきて、これほどに心を囚われた相手はいない。
早く陣に戻らなければと思うが、なかなかその場を離れる事が二人は出来ない。
「この戦が終わったら、お前が望む場所に行こう。お前がいれば何もいらない。二人だけで穏やかに暮らすのもいいな。お前がしたい事を全て叶えてやる」
「それでは九郎様、今すぐお許しいただきたい事が一つだけ」
「なんだ・・・・」
「他の皆様とお話することは許していただきたいのですが。そうでなければ、この場で生活できません・・・・」
数刻前の自分は何と余裕の無い物言いをしたことか。
九郎は自分の頬が羞恥で火照ってくるのを感じた。
「そっ、それはもちろんだ!お前が良いように過ごしてくれればいい」
「ありがとうございます」
九朗が焦がれた、の笑顔がそこにあった。

自分にだけ向けられる愛しい者の笑顔だ。





陣に戻った後、弁慶の訳知り顔の笑みには酷く居心地の悪い思いをさせられたが、守るべき者と成し遂げたい夢が出来た。
これから先、何としても生き延びて見せると九郎は静かに決意した。

その九郎の決意を知るのは何事も無く青い光を降らし続ける月と、その光を浴びて美しく微笑み続けるかの人だけだった。





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