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刃を濡らす血糊を振り払い、知盛は燃え上がる邸を見上げた。
数刻前までは権勢を誇る重厚な佇まいを見せていた邸も燃えてしまえばただの瓦礫の山と化す。
「つまらぬな・・・」
人の生はなんと儚い事か。
自分の身の丈を実直に計ることが出来なければ、人は奢り自ら滅びの道を歩む。
この邸の主は後白河院の御落胤だった。際立つ才も無かったが悪戯に己の出自を笠に混乱を招く振る舞いもしない無害な人物であると聞いていた。
だが密告があった。この者平家一門に叛意あり、と。
相手が相手なだけに軽々しく身動きも取れずにいたが、その密告を裏付けるようにその者の周りで不穏な動きが目に付くようになっては平家としては捨てては置けない。
真実を見極め、叛意が確かな物であれば即刻捕らえよ。抵抗するようであれば刃を抜くも仕方なし。
それが父の命だった。
数人の武士を引き連れて男の邸まで知盛が足を運んでみれば、知盛を出迎えたのは男が翳す震える刃先だった。
「やめておけ。震えているぞ」
密告が真かどうか見極めるまでもない。男は知盛を前に平静を保つ事が出来ず、自ら崩れた。
刀を向けられても微塵も動揺を見せぬ知盛を前に男は息を荒げどんどんと顔色を無くしていく。
年の頃は五十の手前といった頃か。男は刀を持つ手も覚束ず、豪奢な衣に包まれた肉付きの良すぎる体全体を今は震わせていた。生まれてこのかた、人を斬った事もなかろう。男の生白い手が刀の鞘を取り落とさぬようにとぎちりと握り締めている。
みるみると冷静さを失う男に対して知盛の頭は逆にシンと冷えていく。
「知盛様!」
襖を蹴破るようにして邸捜しから戻ってきた部下の手には両手に抱えるほどの書状の束があった。その一つがぱらりと知盛の目の前に落ちる。
そこには平家討伐を煽る言葉が綿々と書き連ねてある。
平家追討の令旨であった。
「・・・まさに、いま送らんとするところだったか?」
こうもはっきりとした証拠が出ればこの男が罪を逃れる術はあるまい。
知盛はゆったりと目線を男に戻す。しかし、その目には今までになかった獰猛な光が揺れていた。
知盛の眼光に射抜かれると同時に男は奇声を上げて知盛の頭上へ刀を振り上げた。
「女子供は殺すな。捕らえて連れて行け。武具家財は一切焼き払え」
知盛に従い部下達は邸を焼き払う者と、邸の人間を捕らえる者二手に別れた。
知盛とその部下を合わせてたったの六名。
だが主を失った後、邸の警護にあたる者どもは戦う気など毛頭なく蜘蛛の子を散らしたように逃げ去り、使用人たちも手に持てるだけの家財を略奪して燃えさかる邸から逃れようと右往左往している。知盛に立ち向かい主とその家族を守ろうとする者は居なかった。
邸の主が存命の頃はそれなりに忠義を示して仕えていたのだろうが、その主がこの世から無くなってしまえばその忠義は散る花びらよりも軽い。
「さて・・・、この様子では邸には最早誰も居ないだろうが・・・」
知盛の頭部を覆う柔らかな銀糸が勢いを増す熱風に激しく嬲られる。火の粉が鎧に覆われぬ肌をじりと焼くにも頓着せず、知盛は邸の中を襖戸を薙ぎ払いながら進んだ。
しばらく進み天を焼く焔が知盛の遥か遠くに下がった頃、知盛は邸の際奥の部屋にたどり着いた。
その襖戸には他の部屋とは違い純白の紙の上に色とりどりの華や鳥が描かれている。それは金箔、銀箔をふんだんにあしらった絢爛豪華な襖絵だった。だがこの見事な襖絵もじきに炎に包まれる。知盛は躊躇わずに右上から刃を振り下ろした。
豪奢な襖絵が真二つに切り裂かれる。
知盛の目に飛び込んできたのは背後に上る炎よりも鮮烈な赤だった。
「女、か・・・」
襖の向こうには知盛を待ち構えるようにして一人の女が立っていた。
深紅の内掛けを纏った女は細腕にしっかりと太刀を握り締めて正眼に知盛に構える。
その切っ先は真っ直ぐに知盛の眉間へと向けられていた。
小作りな顔に良く合う切れ長の瞳は、端正な顔立ちをかき消すほどの力強さがあった。女の眼光は鋭く、知盛の背後で燃え盛る炎よりも苛烈だ。
知盛の口角がゆるりと上がる。
「面白い。邸の主の為にただ一人、か弱い女が俺に刃を向けるか」
「一人ではない。父上の身は屈強な武士達が守ってくれている。お前のようなどこぞの者とも知れぬ賊などすぐに討ち取ってくれるわ!」
その声は鈴を転がすような軽やかさを持ちながら凛と響いた。
「残念だが、お前の父は既にこの世に無い」
「なっ・・・」
切っ先が大きく揺れた。その時を逃さず知盛は一息に女に間合いを詰めると自らの刀で女の得物を叩き落した。
「あ、うっ・・・」
女の両腕を一纏めに掴む。闇に溶けそうな漆黒の髪を指に絡ませひくと、美しく紅が差された唇からは苦しげな呻き声が零れた。
「諦めろ。ここももうじき焼け落ちよう。お前は俺の邸へ連れて行く」
「誰かっ・・・!誰か居らぬのか!」
女は艶やかな黒髪を振り乱し知盛の腕から逃れようと身を捩る。
「この邸の者達は略奪の限りを尽くして散り散りに逃げていった。お前を守ろうとする者など、もう何処にも居ない」
知盛は動きを封じるようにして女を抱きすくめる。
女の髪と同じく漆黒の大きな瞳が限界まで見開かれた。絶望を色に表わせばこの女の目の色になるだろう。
知盛は女の腹に拳を撃つ。
気を失い女は知盛の腕の中に倒れこんだ。薄く開けられた口の端に鮮血が滲む。
舌を噛み切り自害することも許されず、女は知盛に物のように抱えられ火に包まれる邸を去った。
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