暗闇の中、力を込めても指の先すら動かせない。
知盛に酷く扱われた所為かと思ったがそうではなかった。の四肢を縛り上げて赤黒い肉塊が脈動するように震えながら蠢いている。
に纏わり付く肉塊はを捻り潰そうとさらにきつく巻きつき、の骨を軋ませた。
「あ・・あ・」
歯の根が噛み合わない。何度味わっても恐ろしさに身が竦む。このように組みしかれたが最後、日中の穏やかさは消え失せて獰猛な獣の性そのままにの全身を切り裂き臓腑までも貪らなければ、これは収まらないのだ。
は瞠目して自分の四肢を覆うぬめりを帯びた肉塊を見る。
肉塊の表面には大小様々な、無数の人面が浮き出ている。その全てが醜く歪み、耳を突くような断末の叫びをあげ始めた。
の頭の中でその叫びが渦を巻く。
その人面全てが父の顔をしていた。
暗く穿たれた穴がへの呪詛を吐く。

『お前が欲したのだ』

呪詛の言葉は幾重にも重なりを苛む。
忘れていた。忘れたかったのだ。
無理矢理に押し付けられた金の簪を手荒く弄びながら。
「この世の全てをくださいませ」
父という名の、身も心も小さな臆病な男には確かにそう言った。




「・・・っ!」
鋭く息を吸い込んでは目を大きく見開いた。その瞬間、闇は霧散して部屋を満たす日の光がの目を眩ませる。
の全身をしっとりと汗が覆っている。目尻からは後から後から涙が零れる。
その涙を濡らし冷やされた手巾で押さえられ、額の汗も拭われる。
早鐘のように鳴り続ける胸を落ち着かせようと何度か大きく息を吸い込み、は見慣れぬ天井からぼやけた焦点を脇にずらした。すると見慣れぬ女がを気遣うように見下ろして屈み込んでいる。
様、お加減はいかがでしょうか。白湯でもお持ちしましょうか」
女の声音にはを蔑む刺は無く、表情からもひたすらにを案ずる想いが伝わる。
「ここ、は・・・」
声を出そうとして喉が痛み、声が聞き苦しく掠れた。女御は慣れた風に真綿に水を含ませるとそれをの口唇に乗せる。冷水が乾いたの喉に染み入っていく。
「重衡様もお小さい頃はよくこのように寝込まれて・・・。さぞ、お辛い思いをなされたでしょう」
素直に真綿を吸うに女は思わず目を細めたが、の身に起こった事をどこまで承知しているのかすぐさま痛ましげに眉を寄せた。
「よくお休みなさいませ、私がお傍におりますから・・・」
その時襖が引かれ、女の後ろに重衡の姿が見えた。
様。お加減は」
やや余裕を無くした面持で部屋に入ってくる重衡に、女は楽しげに口元を押さえを見やる。
「まあ。様がご心配で朝餉もそこそこに飛んで御戻りになられたようです」
女の軽口を咎める事も無く、重衡が一つ目配せすると女は心得たように深くの前で頭を下げ隣室へと下がった。
「あの女房は私と兄上の乳母だった者です。安心して何なりとお申し付け下さい」
言いながら仰臥するの傍に重衡は腰を下ろした。
自分の置かれた状況が未だ飲み込めず、何から聞けばよいのかも考えあぐね、は重衡の端正な顔をただ無言で見つめていた。自分の身体はすっかりと清められ、寝間着も寝具も整えられた上で見慣れぬ部屋に横たえられていた。
「まずは断りも無くこの部屋に様をお連れした事をお詫び申し上げます。私が様の部屋をお訪ねした時は、様は、・・・気を失っておいでで。先程の者にお身を労わって差し上げるように申し付けました」
知盛との無残な情交の跡を重衡に見られたのだとは知り、胸がキリと痛んだがそれよりも聞きたい事がある。
無心に自分を見上げてくるに、重衡も躊躇いながらも重い口を開いた。
「兄上に、今後は様のお世話をするようにと命を受けました。もちろん、これは私自身の願いでもあります」
喉に何かが詰まったような心持ちがして、の呼吸は苦しげに忙しないものになる。
知盛は手に入れた玩具に飽いたのだとは悟った。
この日が遠くない将来に訪れると分かっていた筈なのに、いざその時を迎えると思いの外胸が潰れるほどに苦しい。この息苦しさが何処から来るのか、は考えたくなかった。
様・・・」
が苦悶の表情を浮かべてしまったのか、それともの身体を気遣ってか、重衡がそっと声をかける。
「私はあなたをお慕いしております」
はっきりと重衡が言った。
様、私の生涯をかけて貴方に心を尽くします。これからは安らかに過ごされますよう」
「私の何を知って慕っているなどと!」
重衡を遮り、言を荒げるに重衡は柔らかく笑んだ。
「何も。様のことは何も存じません。ただ・・、貴方は強いようでいてとても脆く、儚い。まるで自分の身を守る術を知らずに風に嬲られるままの可憐な野の花のようだ。だから、私はどうしても貴方から目を離せない」
だから自分を憐れんだのかと、重衡の心をそう捉えようとした。だが、そのような浅い憐れみの情を凌駕する真摯さで重衡の言葉はの胸に響いた。
様、今宵の宴が終ったらすぐにでも。私の邸に、共に参りましょう」
そうまで言われては頷くしかなかった。
頷くを見て、重衡の笑みが蕩けるように深くなる。
重衡ならがこれまで知る事の無かった穏やかな暮らしをくれるだろう。
そして、いつかは重衡が自分へ寄せる想いを自分も重衡に返す事が出来るだろうか。
重衡なら安寧の場を自分にくれるだろうか。
今はただ、知盛の邸から、知盛から離れたいとは思った。



昼過ぎからうとうととまどろんで、琵琶の音色に呼ばれるようには目を覚ました。
「今宵は観月の宴だそうで。宴の間から遠く離れておりますのに琵琶の音が良く聞こえますね」
の枕もとでふっくらとした頬を持ち上げて乳母はに微笑む。
乳母の艶やかな健康そうな頬に開け放たれた戸口から射す月の光が眩しいほどに降り注いでいた。
「夕餉は召し上がれそうですか。今日は重湯を少し口になさっただけですから・・・」
言いながら月の光を正面に受けて部屋の外に向かった乳母の影がぐらりと傾いだ。
視界の端に異変を感じ取り、が天井から戸口へと視線を動かすと同時にどさりと重い物が下ろされるような音がする。
何が起こったのかがその目で知った時、重衡の乳母は戸口の手前で倒れていた。
その乳母を跨ぎ漆黒の影がずいと部屋に入ってきた。不気味な黒い人影と宴の席から流れ入る美しく悲しげな琵琶の音色は酷く不似合いだった。
「高倉宮の姫か」
月光を背に立ち、黒い影はに問う。父と呼んでいたあの男は、生きていても死んでもを苦しめる。
は男から少しでも遠ざかろうと自由にならぬ身を引き摺り後ずさった。がどう答えようと目の前の男はここで自分がすべき事を定めている。
「恨むなら、我が姫から知盛殿の寵愛を奪った自分を恨め」
男の抜き身の太刀が月の光を弾いてぎらりと光った。
「私を殺した所で、知盛は私への興味などとうに失っている」
男に向き合ったまま足で床を蹴り、手で身体を引き摺りはすぐさま壁に突き当たった。
「そうか。しかしお前が姫を辱めた事、それ自体が死に値するのだ」
この邸で女達に恨まれる心当たりなどありすぎる。もともと迎合する気などさらさら無かった。
目覚めてから唐突に訪れた、これが自分の死か。
流れるままに身を任せて、明日からも無益に自分の生は続いていくのだと漠然と考えていた。
これが、自分の死か。
漆黒の影にしか見えない目の前の男を、は無様に這いつくばったまま全身を強張らせて見上げる。自分の心の音と荒い息遣いが嫌に耳につく。
自力でこの場を逃げ出す力がない。人を呼ぶ前にこの男は自分の命を断つだろう。
苦し紛れに手近にあった灯り油を灯った火ごと男に投げつけた。
男は嘲笑して太刀で油皿を払ったが、太刀を受けて皿は乾いた音を立てて砕けた。
「ぎゃっ・・・」
の目の前で宙に散った油が男の頭部を覆い、瞬時に橙の炎を纏わせた。
男が叫びを上げたのは一言だけで、それからはの寝具の上で歯を食いしばり悶絶して転げまわっていた。
は毛髪と肉の焦げる匂いに口元を押さえながらも、じりじりと戸口に向けて身体を這わせる。
「ああぁ!」
脇腹が焼け付くように熱を持ちは堪らず叫んだ。
熱を静めようと脇腹を押さえれば両手は熱く濡れそぼった。自分の腹から滲み出す血が少しずつ板の間に広がっていく。
「女!」
「くぅっ・・!」
髪を思い切り掴まれ、荒々しく身体を引き上げられたは再び悲鳴をあげる。
「許さぬ・・・!楽に死なせてやろうと思ったものをっ」
男が怒りに任せて太刀を振り上げる。
の視界で閃いた太刀の真白の光は、息を飲むの前で眩い銀の光へと成り変った。
床に放り出されて全身が痛みは四肢を折り畳むように身体を丸めたが、すぐさま抱き起こされて心地良い熱に全身を包まれる。
!」
叱咤するような声では我に返った。
「この程度では、死なぬ」
の手に重ねるようにして、大きな手がの脇腹から溢れる血を押さえた。
「・・知、盛」
信じられなかった。
知盛は自分に飽いたのではなかったか。
と知盛の視線が言葉の無いままに絡む。
月の光を跳ね返すほどに、知盛の艶やかな銀髪は輝いていた。その銀の光に見惚れている内には知盛の胸の中に抱き込まれる。
息が出来ぬほどに知盛の腕に篭る力が強い。
・・・」
まるで愛しむかのように知盛がに頬を合わせてくる。
「あ・・」
の体が震えた。いつの間に溢れ出したのか、涙が止まらない。
しかし、数人分の慌しい足音が聞こえると同時に知盛はから身体を引いた。
様!」
重衡に続いて警護の者達数人が駆けつけた時にはを襲った男は知盛の一太刀で絶命していた。
乳母は気を失っていただけだったのか駆けつけた邸の者に助け起こされている。
「脇腹をやられた、見てやれ」
知盛は先ほどの熱など消え失せた様子であっさりとを重衡に引き渡した。
それからはがどれほどに見つめても知盛がを振り返る事は無かった。
知盛がうつ伏せに倒れた男を足蹴に仰向けに返す。
焼け爛れてはいたが男の顔にですら見覚えがあった。重衡の後に続いた邸の警護人達も思わず目配せをする。
知盛はおもむろに男の懐に手を差し込み一通り探ると、男の胸元から見事な黄金の山吹が散らされた蒔絵の懐刀が転がり出てくる。
蒔絵の文様は公家一門ごとに定められている。
「物盗りだな。宴の夜を狙ったか」
知盛はその場の全員が思いもよらぬ事を言った。
邸の内情を良く知らぬですら、男自身の言に加え、その懐刀の存在だけでも男はこの邸内のどこぞの姫の付き人なのだと分かる。
「賊がどうやら三条の姫の私室に押し入ったようだ。この懐刀が証拠だ。姫もさぞ怯えておいでだろう。この邸にお越し頂いたばかりだと言うのに、三条の姫の心痛は察して余りある。御心が癒えるまで父君のもとへ戻られるがよろしかろう。癒える日が来るかは、分からぬがな」
三条の姫とやらを思いやる形を取りながらも、誰の耳にも知盛の言葉は氷のように冷たかった。
邸の者たちはそれで心得たように一礼すると各々が成すべき事をし始める。
「重衡、この東棟を好きに使うといい」
重衡とに背を向けたまま告げると知盛は凄惨たる部屋を後にした。
様、すぐに手当てを・・・」
は身体の痛みを忘れたかのように首をめぐらせ、知盛が歩き去った渡殿をひたすらに見つめる。
そのようなを重衡も自らの腕に抱きながら物言わず見下ろしていた。
それから重衡は血塗れるのも構わずにを抱え直すと足早に別室に移動した。
箍が外れたようにの涙は溢れつづける。
重衡に抱かれながらもの身体はどんどんと冷えていった。



「最初に異変に気付いたのは兄上です」
が寝ていた部屋は小さいながらも客人をもてなす工夫がされていて、宴の間の舞台から遮る物無く中庭を通り対角に面していた。
客人が離れにいながらも雅楽が楽しめるようにという心遣いの一つであったが舞台からの音が良く通るという事は逆も然り。
「私は兄上が突然に席を立たれたのが何故なのか分からなかった。様の声が聞こえてようやく私もこちらに」
手当てを受け別室に通されたは重衡に応えるでもなく静かに仰臥したままだ。
「・・・ご自分のお心に気付かれたのですね」
重衡は寝具の上に投げ出された冷たく小さなの右手を両手で包み込む。
様は、兄上を慕っていらっしゃる」
重衡に応えたのは、の眦からほろりと零れ落ちた涙だった。
「こうなる前に、この邸から攫えてしまえたら良かった」
「重衡殿・・・」
「兄上から命じられた大儀もあります。自分の望みのままに貴方を連れ出してしまいたいが、今宵は私一人で邸に戻りましょう」
に何が言えよう。謝罪の言葉など重衡は望んでいない。
否とも諾とも言わず重衡の優しさに甘え続け、挙句に重衡の想いを踏み躙る事になった。
初めて知った押さえ切れぬほどの慕わしい想いと目の前の男への悔恨の想いがせめぎ合い、いつまでもの頬を涙が濡らす。しかし重衡はこのような時でさえもをひたすらに労わり笑みを浮かべて見せるのだ。
「重衡殿」
「はい」
「貴方は、私を野の花のようだと・・・」
暖かく包み込むような、重衡はにとって決して自分を傷付けない春の陽射しのような存在だった。
「重衡殿は私を野の花のようだと言ってくれた。だから私は、貴方とは共に行けない」
見返りを求めず人を慈しむ事ができる、優しすぎる重衡の傍にはやはり自分は居られない。
重衡はの手を自分の口元に引き寄せると細い手首の内側に唇をあてた。が思わず手を引こうとするが重衡は驚くほどの強さでそれを許さなかった。
チリと皮膚を吸われ痛みが走る。形の良い重衡の唇が離れると、の手首には小さな赤い華が咲いていた。
「・・・せめてこの華が散る数日の間だけでも、様が私の想いを忘れずにいてくださるなら、私は・・・」
重衡は再びの小さな手を両手にそっと包み込む。
そのまま痛みを堪えるように硬く目を閉じ、重衡はしばし俯く。
それから壊れ物を扱うようにの手を寝具の上に戻すと、小さく衣擦れの音をさせて重衡は立ち上がった。
その時にはもう、重衡はいつも通りの柔らかい笑みを取り戻していた。
「この次に様にお会いするのは観桜の宴になるでしょう。その日を心待ちにしております」
そう告げると重衡は振り向かずにの前から去った。
たおやかでいてその潔さはやはり血の繋がった兄弟なのだと感じさせた。