某年某月某日
査問会ニヨル裁決
ハタケカカシ上忍者ノ不法二某中忍者ヲ拉致監禁シタル罪
里内二混乱ヲ招キタル罪
過去ノ功績ヲ鑑ミタ上、国外任務ヲ負ウ事ニヨリテ其ノ罪ヲ償ワセルトス
期間 無期限
アナザー・ヘヴン 最終話
あれほどに執着していたというのに、今はあの人がどんな顔で笑っていたのか、その記憶は霞みがかっていて曖昧だ。
時間というものはこんなにも残酷なのだと身をもって知った。
里を出るとき、決して忘れはしないと誓った筈なのに。
ただ断片的に、まるで昨日見たかのようにはっきりと思い出すものもある。
それはあの人のきつく寄せられた眉根だったり、深爪の一歩手前まで切り揃えられた清潔な短めの爪だったり。
あの人から笑顔を奪った自分があの人を笑顔を思い出せないのは当然の罰だろう。
今でもあの時の事を思い返すと恐怖のあまり身体が強張る。
腕の中に数ヶ月抱きしめていたというのに、肉の落ちた身体、張りを失った肌、落ち窪んだ目元に気付きもしなかった。
あの時の自分は確かに狂っていた。
子供が可愛さに任せて犬の仔を抱き潰してしまうかのように、自分は、イルカを・・・・。
意識を戻さないイルカを横抱きにして、里中を一心不乱に駆けた。
誰に見られようが構わなかった。
息を詰めて疾走する己の心臓は今にも破裂せんばかりに激しく脈打っていた。
イルカの命が失われずに済むのならば自分の心臓など破れてしまってもいい。
緊急病棟の看護士達にイルカを引き渡すと、イルカの身体は瞬く間にカカシから遠ざかり病棟の白い部屋の奥に消えた。
病院の廊下に立ち尽くすカカシの後ろには数人の人の気配がした。
振り返らずとも里長が自分の背中を見つめているのが分かる。
愛しい者を手放した途端に心に平穏が戻るというものも皮肉な事だ。此処まで追い詰められなければ、自分はイルカを手放す事など出来なかった。
里長と真正面から向き合ったカカシの心はひたすらに静かだった。
ちらと目配せ一つさせて身を翻す里長の後にカカシは抵抗することなく従った。
裁決が下り、言い渡されたのは里外の同胞の救出。
期間は無期限。
遂行が危ぶまれている任務など腐るほどある。その中から救援依頼があった順に随時現場に向かえとカカシに命が下った。
もちろん命の保証など無い。
死んでこいと言われたも同然だ。
ただ処分するのではなく、自分を使い捨ての戦力として有効に利用するつもりなのだろう。
査問会に参加した上層部の中で、ただ里長だけが渋面を作っていたがカカシは異論も唱えずにそれに従った。
それからは昼も夜も無かった。
返り血を落とす事も、睡眠、食事を取る事も忘れてカカシは前線から前線へ、Sランク任務からSSランク任務へと駆け抜けた。
身体の悲鳴は一切無視した。
覚醒作用のある特別に調合した兵糧丸を噛み砕き、強い副作用に軋む身体を奮い立たせる。
贖罪になるなどと思わないが、この手で救った命があの優しい人がいる里へと帰る事が出来るのなら、自分が存在する意味も少しはあるのかもしれない。もう二度と自分が戻る事は無いだろうあの豊かで美しい里へと、そしてどうか自分の代わりにその足でもう一度里の土を踏みしめて欲しい。
全身の感覚を研ぎ澄ませてカカシは得物を振るう。
絶対に一つの命も取りこぼしたりはしない。必ずあの人が愛する、あの人を守る木の葉の里へ、全ての命を送り返す。
気付くはずも無い、気付かせるつもりも無いが、それがカカシが送るイルカへの唯一のメッセージだ。
だが一つだけ、忘れられずにカカシを苦しめるものがある。
極限まで見開かれ、自分を恐れ震える漆黒の瞳。
その瞳が突然クリアにカカシの眼前に現れた。
「ぐっ・・・・!」
脇腹が熱を持つ。しかし躊躇いは一瞬。
カカシの流れる動作はそのままに、イルカと同じ色の瞳を持った敵忍の首は鮮やかに断ち切られた。
「三・・・・」
敵忍殲滅へのカウントダウンは止まらない。
白と黒、二色の世界であった荒野は、いまや完全に匂い立つ赤に支配されている。
静寂に耐え切れず動いた影をカカシは振り返りもせずに薙ぎ払う。悲鳴を上げる間もなく敵忍の一人が胴を分断される。
「二」
薙ぎ払った腕の反動を即座に殺し、音も無くカカシは前方へ飛び出す。助走の勢いのまましなやかに飛び上がり、大きな岩の向こうに着地する。
「一」
着地と同時にカカシの僅か後方で敵忍が前のめりに地面に崩れ落ちる。敵忍の手の中で飛ばそうとしていた式鳥が溶けるように消えた。
敵忍の首筋にはカカシの忍刀が根元まで突き刺さっている。
手持ちのクナイは尽きた。最後の得物である忍刀は引き抜いたところで纏わり付く脂で既に使い物にならないだろう。チャクラも残り僅か。
武器一つ持たずにカカシは更に荒野を疾走する。
カカシの二十歩ほど先を疾走する敵忍が振り向きざまカカシへ向けてクナイを投げつける。カカシは左腕を眼前にかざしてクナイを受け止めた。
まさか命中するとは思わなかったのだろう。足止めのつもりで苦し紛れに放ったであろうクナイがカカシの左腕に突き刺さるのを見て敵忍の足が僅かに乱れる。
それをカカシは見逃さない。
カカシは迷う事なく左腕のクナイを引き抜くと前方に鋭く右腕を降ろす。寸分の狂いも無くカカシの血に濡れたクナイは最後の一人の眉間に吸い込まれた。
「零・・・・・」
荒野は再び静寂に包まれた。
生きるものの気配はない。仲間たちは無事に逃れただろう。敵も漏らす事なく討ち取った。
脇腹と左腕から少なからず血を失ったカカシはゆっくりと乾いた土の上に膝を付いた。
カカシの膝元から少し離れた所で、白い小さな花が乾いた風に花弁を揺らしていた。
もう季節は春なのだ。あれから確か、五度目の。
僅かばかりの休息を得る為にカカシは固い地面の上に身体を横たわらせた。
此処はこれほどに不毛な土地だが、逞しく植物は根を張る。カカシの顔の横で指先ほどの小さな花がちらちらと揺れ続ける。
カカシが見上げる雲一つない青い空は、この痩せた土でさえも、木の葉の里に繋がっている。
少しだけ休むつもりで身体を地面の上に投げ出したが、それからカカシの身体は鉛のように重くなりピクリとも動かない。
ここまでよくもったと言うべきか。
不眠不休で昼夜を問わず駆け続けたカカシの身体は持ち主の意思に反して沈黙を続ける。
「ここまで、か・・・」
まだ心臓は規則正しく鼓動を伝えているが、流れる血をそのままにしていればいずれはゆっくりとこの身体は死を迎えるだろう。
自ら進んで死のうと思ったことは無いが、もう、身体が動かない。
土埃を含む風が絶える事なくカカシの頬を撫でる。
死は目前なのだろうか。
こんな時になってようやく、イルカの柔らかな気配、匂い、弾むように駆け寄る足音を鮮明に思い出す。
この記憶を抱いたまま生涯を終えられるのなら。
例えこれから向かう先が天の国ではなくとも、思い残す事は無い。
暖かな気配と、日向のようなあの人の匂い、そして駆け寄る足音はあの世からの使いか。
「カカシ先生」
カカシの耳に染み込むように流れ込んできた声は――――幻ではなかった。
規則正しかった心音が不意に乱れる。
あり得ない。
この声の持ち主は。
「カカシ先生・・・・」
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、自分を泣き笑いの表情を浮かべたイルカが覗き込んでいた。
「よくぞ、ご無事で・・・・」
くしゃりとイルカが顔を歪ませると黒の双眸から涙がカカシの頬に零れ落ちた。
カカシの頬を伝うイルカの涙から、イルカの体温がカカシに移る。
二度と会う事は無いと思っていた。
カカシは言葉も無くイルカを見つめ続けることしか出来ない。
「恩赦を、火影様から頂く事が出来ました。俺の教え子が何人も、あなたに命を救われました。あなたの足取りを掴むのに、時間がかかって・・・。ああ・・・」
イルカは震える手でカカシの左腕に清潔な布をきつく巻きつけた。脇腹にも止血を施す。
「あなたは、やはり凄い。今も昔もあなたは里の生きた英雄です。あなたに命を救われた若い忍達は、皆こぞってあなたに憧れて、高みを目指しています。・・・いや、こんな事は、どうでもいいんです・・・・」
久しぶりに耳にするイルカの心地良い声音。
カカシは無心で聞き入っていた。
「俺達は、俺は・・・・過ちを犯してしまった。俺はもう、二度と繰り返したくないんです」
イルカの心地良い声はカカシの胸を深く抉る。
その通り、過ちだったのだ。
今イルカは、その過ちを正して新しい人生を歩んでいるのだろうか。
生真面目なイルカのこと。自分に会いに来たのは過去に決別する為か。
「あなたを愛しています」
依然カカシは言葉を発する事が出来ない。
その上呼吸が詰まり、心音が再び乱れ始める。
「俺が愛しているのは、あなたです」
イルカが繰り返す。イルカの言葉は都合の良いカカシの幻聴ではない。
土に汚れた、手甲に包まれたカカシの右手をイルカはそっと持ち上げ、ささくれ立った指先に唇を押し付ける。
「この、たった一言だけで、良かったんですね・・・・。伝えるのが、随分遅くなってしまいました」
嗚咽で震えながらも、イルカはカカシに微笑みかける。
イルカが、カカシに笑顔を向ける。
「里の誉れであるあなたも、泣き虫で臆病なあなたも・・・・。あなたの全てを愛しいと思います」
枯れ果てたと思っていた涙が、何処からとも無く湧き上がりカカシの目端から幾筋も流れ落ちる。
「あなたは、変わらないですね・・・・」
それを見たイルカがふ、と目を細める。
カカシは込み上げる思いを必死に押さえつける。
呼吸が乱れ、カカシの胸は苦しげに波打った。
「一緒に里に帰りましょう。あなたは俺無しで生きていけるんですか?」
「・・・無理です・・」
イルカの声と比べて自分の声は掠れていて、何とも弱々しかった。
イルカが笑みを深くする。
「・・・俺もです。帰りましょう、一緒に」
本当に帰れるのだろうか。
信じられない思いでカカシはイルカを凝視する。
「俺を、許して・・・くれるんですか・・・」
「そんなの、初めから」
イルカはゆっくりとカカシの右手を包み込む。
動かないと思った身体が再び力を取り戻し始めた。
イルカの手を取って、覚束ないながらもカカシはもう一度自分の足で大地を踏みしめる。
この大地は木の葉の里へ繋がっている。
二人の頭上に広がる青空も。
二人の間を吹き抜ける風も。
木の葉の里は緑に彩られて生命が脈動する春の只中だろう。
しっかりとカカシの手を握り、イルカは迷う事なく里への路を進む。
カカシが焦がれ続けた笑顔がそこにあった。
愛しい者に向けられる、深い慈愛に溢れたイルカの笑顔だ。
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