あたしは困っていた。
目の前にはピンク色のふわふわした生き物。漆黒の真っ直ぐな髪はさらさらと風になびき、その髪に縁取られた小作りな顔はまだ幼さを残しつつ充分に整った美しいものだった。年は二十歳になるかならないか。
薄手のピンクのカーディガンが風に揺れて白いワンピースの上に柔らかくはためいている。
対してあたしは男女共用の忍の標準支給服だ。イルカとペアルックだと言い張れない事も無いが。
可愛らしい女の子だ。あたしは素直にそう思った。
何故だかその可愛い女の子にあたしは詰め寄られているのだった。
服装から見ると忍ではない。アカデミーのアルバイトか、何か。民間人だろう。
「イルカ先生と別れてください」
―――は?
彼女が言った短い一言が上手く頭の中で意味を成さない。
だいたい、この子は何なの。何でこの子からこんな事を言われなきゃならんのだ。
あたしがポカンと口を開けたままでいると、その女の子の切れ長の瞳にはみるみる涙が盛り上がってきた。
あ、泣き出した。 綺麗な瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
どうでもいいっちゃいいが、ここは受付所とアカデミーを繋ぐ連結路で人目が気にもなる。
さっきからあたし達はいい見世物になってるんだけど・・・・。
殺しても死なないと言われている上忍のあたしの前で身体を震わせて泣く民間人の美少女。
困っているのはあたしなのだが、何やらあたしが泣かせているみたいじゃないか。
「私・・・イルカ先生の事が好きなんです」
―――だからなんでそれをイルカじゃなくてあたしに言うんだ。いや、イルカに言われるのも困るなあ・・・。困るというか、嫌だ。
「私、イルカ先生の為なら何でも出来ます。あなたよりもずっとイルカ先生の事が好きです」
いや・・・あたしも命投げ出してもいいと思えるくらいにはイルカの事好きなんだけど。万が一の時は躊躇わずにこの身を投げ出せる。当然にそうする。
それじゃ、足りないのだろうか。
「あなた、モテるんでしょ?イルカ先生とは遊びなんでしょ?だいたい任務でほとんど里に居ないっていうし、あなたいつ死んだっておかしくないでしょ!?それなのにイルカ先生を縛るなんて酷い!」
あたしが締まり無く口をあけ、何の反応も見せない事にますます彼女は焦れて興奮していくようだ。
「ハイ、お嬢さん、そこまで」
あたしの肩にもたれかかって突如現れた紅がのんびり言った。
いつの間に後ろに立ってたんだ。不覚だ。気付かなかった。
口調は努めてのんびりしているが、僅かに漏れる紅のチャクラには殺気と苛立ちがこもっている。
おいおい民間人に殺気を当てちゃまずいだろうよ。
「お嬢さん、そんなの直接イルカちゃんに言いなよ。あとね・・・いつ死んでもおかしくないなんて、体張って里を守る忍に対して随分な言い様じゃあないの?」
紅の眼は完全にすわっている。
その子は瞬時に首まで顔を紅潮させ、そのすぐ後に真っ青になり、踵を返して走り去ってしまった。
結局あたしは一言も発する事が無かった。
「、なに好き放題言わせてんのよ。あんたらしくもない」
「あ、うん・・・」
あー!もう!!と、紅は癇癪を起こしたように声を荒げると、呆けたままのあたしをズルズルとアカデミーの食堂に引っ張っていった。
「はい、」
あたしの前に紙コップのコーヒーが置かれる。
「あ、ありがと・・・。倍にして返すよ」
「何ぬるい事言ってんのよ。あんたが隠してる『久保田』で手を打つわ」
紅の取り立ては厳しい。あたしは素直に承諾した。
今日はさっきの件の聞き役になってやる、貸しは後できっちり返してもらうわよ、という事なのだ。
「さっきの子、知ってる子?」
「ううん。初対面だね。多分、アカデミーでイルカと仕事してる子なんじゃないかな」
「ふうん・・・。ま、何となく想像つくわよね。イルカちゃん、誰にでも優しいからあの子勘違いしちゃったのよ」
ふう、と赤い唇から紅はタバコの煙を吐き出した。
「挫折を知らない小娘は傲慢よねえ。手に入らない物があるってまだ知らないのよ。でもあんな勝手な話、あんたも聞く馬鹿じゃないわよね?」
真正面から物凄い眼力で覗き込んでくる紅にあたしは居心地の悪さを感じ、思わず目を泳がせてしまった。
「何よ、その顔。な〜に、あんな事で動揺してんのよ!」
紅は心底呆れたという顔で目と口を半開きにしている。
ああ、あれだ。イルカが持ってる動物図鑑に載っていたカピバラに似ている。
普通にしていればいい女なのに。
まあ、確かに幼い一方的な主張に付き合う義理は無いのだが、彼女の最後の一言は軽く流すにはあまりにも重すぎた。
「でもね、紅。少なくとも、さっきの子は任務で死ぬ事なんて無いのよ」
だから、イルカを残して死んでしまう事なんて多分無い。
一度言葉にすると、ますますズシリとその考えは心に圧し掛かってくる。
あたしの言いたい事を察して紅は言葉を無くす。
このことに関しては同じ忍の紅も気休めの言葉なんて浮かばないだろう。
「別に民間人じゃなくても、里内勤務のくの一とかね。あたし以外の誰かの方がイルカを幸せにする事が出来るんじゃないかって・・・考える事もある」
「・・・」
「ほら、あたしは将来の約束、何もしてあげられないからね」
ニッといつもどおりの笑みを浮かべられたはずなのに、紅は言うべき事が見つからずといった様子で暗く沈んでしまっている。
里外の任務を手広く受け持つあたしは、おいそれと里内勤務に移動を願うわけにはいかない。木の葉の戦力が年々低下していく中、自分の希望を通すことも好きに生きる事も戦忍なら叶わない。階級が上がるにつれ里に対して背負う責任も比例して大きくなる。
その事は紅も充分にわかっている。
あたし達は黙ってまずいコーヒーを飲み干した。
「とにかく、一度イルカちゃんときちんと話し合いなさいよ。さっきのガキの事だけじゃなく、これから先の事もね」
紅はあたしの手の中から空の紙コップを取り上げた。
「きちんとイルカちゃんの言い分を聞きなさいよ?自分の中で勝手に結論出すんじゃないわよ?私はあんた達の事、お似合いだと思うわ」
「はは、ありがと」
もうあたしは表情を取り繕う事なんか出来ず、眉は情けなく八の字に下がっていたと思う。
紅は軽くあたしの肩を叩いてさっさと姿を消してしまった。
人もまばらな午後の食堂であたしは愚にもつかない事を延々と考える。
もしこの先運良く生き延びたとして、イルカと結婚して、子供を産んで・・・。
だめだ。まるで現実味が無い。
生き延びられる保証は無いのに、不確実な未来の事なんて考えられない。
それよりも死なずに済んだとしても、イルカに愛想つかされたらどうしよう。
こんな家事も出来ない、可愛げの無い女の何処がイルカは好きなんだろう。
・・・さっきの女の子。
彼女なら、毎日イルカの帰りを美味しいご飯を作って待っていて、甲斐甲斐しく世話をしてあげて・・・。いつかイルカの子供を産んで、立派に育児もしながら家庭を守っていけるのだろうか。
私とイルカの時よりもはるかに具体的に未来を想像出来てしまい、あたしは泣きたくなった。
一人でぐるぐる悩んで、結局何の答えも見つからず、建設的な意見としては紅の『きちんと話し合え』しか残されていない。
ふと気がつくと太陽は沈み日が暮れていた。
時計を見ると7時をとっくに過ぎている。イルカは今頃仕事を終わらせ家に帰って、二人分の食事の用意をしているんだろう。
あたしなんか休暇中で一日ぶらぶらしていたのに(いや、任務の報告とか多少仕事はあったが)。あたしが飯を作ってイルカの帰りを待っているべきなんじゃないのか?
どうも世の中の男女のあり方とはかなりかけ離れているように思う。
それでもイルカと一緒にいると心地よいのは、イルカがあたしに歩み寄ってくれているからだ。
あたしはそんなイルカに何を返してあげられるんだろう。
愛の巣へ歩を進める自分の足取りは重かった。
アパートに辿り着きドアノブに手をかけようとした時、手前にドアが開いた。
シンプルな白いエプロンを身に付けたイルカが顔を出す。なにやら思い詰めた顔で。
「さん!!」
珍しくイルカから熱烈な抱擁を受け、あたしは目を丸くした。
「ああ、良かった。帰ってきてくれて」
あたしはイルカに抱きかかえられたままズルズルと台所に引き上げられる。今日は肉じゃがかぁ、などと考えながらあたしはイルカのなすがままになっていた。
「俺の話を聞いてください。彼女にはきちんと断ったんです」
イルカが真剣な顔であたしに訴える。
彼女。誰の事を言っているのかはすぐに分かった。
だってあたしはずっとその彼女の事ばっかり考えていたから。
イルカの口から『彼女』という言葉が出た瞬間、あたしの心には一枚の強固な膜が張り付いてしまい、外界からの刺激を遠くにしか感じられなくなってしまった。
こんなにも近くにいるのに、イルカの声は遠い。
「迷惑かけて、すみませんでした」
ああ、公衆の面前で大騒ぎしたから、物凄く噂になったんだろうな。かえって悪い事をした。
素行の悪い上忍のあたしと、上からの信頼も厚く聖職に就いているイルカ。あたし達が無責任な噂の的になっているのは知っている。今日のあたしとあの子の一件も格好の噂の的になったのは想像に難くない。イルカも今日は心穏やかでは居られなかったのだろう。
でもそれなら話が早い。
「イルカ、話しよう」
あたしはイルカの手をやんわり身体から外すとのろのろと居間へ移動した。
イルカの纏う空気が緊張する。
胡座をかいて座り込むあたしの正面にイルカは正座する。
ああ、そんなに畏まらなくていいのに。怒ってなんかいないのに。
そうは思っても、あたしには自分の気持ちを伝える余裕がその時は無かったのだ。
「その子の事はもういいよ」
「さん・・・」
イルカの瞳は悲しげに揺らめいて、まるで捨てられた子犬のようで、抱きしめたい衝動に駆られる。
あたしはその考えを振り切るように頭を振る。
「イルカ、子供好きだよね」
「は?」
突然飛躍した話について行けず、イルカはきょとんとした。
あたしは構わず話を続ける。
「いつかは自分の家庭を持ちたいでしょ?子供もたくさん欲しいでしょ?」
「さん、どうしたんですか」
イルカは怪訝な顔をしてあたしの様子を伺っている。
「ね、そうだよね?」
あたしが畳み掛けると、只事ではない雰囲気にイルカは更に緊張する。
「そりゃあ・・いずれは、家族は欲しいです・・・」
イルカの言葉でふつりとあたしの中のか細い糸が切れた。
それはあたしとイルカを繋ぐ頼りないもので、縋る間もなく途切れてしまった。
目の前の可愛い人に告げる言葉は一つしか見つからなかった。
だって、あたしはイルカが欲しい物をあげる事が出来ない。
「別れよう、イルカ」
「・・え・・・」
イルカは固まったまましばらくあたしの顔を見つづけた。
「何を、言って・・・どうして・・」
ようやく口を開いたイルカの声は酷く掠れている。
「飽きたから。ごめんね、イルカ」
あたしの舌は驚くほどに滑らかだった。
膝の上で握りしめたイルカの手は真っ白になっている。
イルカの両腕が小刻みに震えている。
真っ黒な深い瞳に射抜かれて、あたしは即座に二重三重に心に鎧をまとう。
「本気なんですか・・・」
「うん。今まで楽しかった。イルカって周りに居なかったタイプだったしね。でももう飽きちゃった」
軽薄に聞こえるように声音を作る。
痛いくらいに突き刺さるイルカの視線を正面から受け止めて、あたしは普段通りに笑えたと思う。
あたしは立ち上がり、居間に留まるイルカをそのままに玄関へ向かう。
「イルカ、元気でね」
イルカは一度も振り向かなかった。
頭の天辺でキツク結ばれた黒髪が尻尾みたいに揺れるのが好きだった。今は俯いた頭の上でピクリとも揺れていないけれど。
きっとこれからもその尻尾がずっと好きだ。
さよなら、イルカ。
心の中で呟くと同時に全身の血が凍りつくような錯覚に囚われる。全身の体温が急激に下がる。辛くて、辛すぎて、身体の機能がすべて停止してしまいそうだ。
イルカのアパートを出て、出せる力を総動員して足を動かし、最初の角を曲がった所であたしは呆然と立ち尽くした。
遠くへ、できるだけ遠くへ行こう。何年も里を離れるような長期任務がいい。
うっかりイルカに会ってしまったら、今言い放った事も忘れてみっともなく縋り付いてしまうかもしれない。
ふと気配を感じ空を見上げた。
日も暮れた夜の闇の中を白い鳥が自分めがけて真っ直ぐに飛んでくる。普通の鳥が夜中に空を飛ぶ訳が無い。普段であれば腹の立つ無粋な突然の召集も今夜ばかりはありがたかった。
あたしは身体を引き摺り、真っ直ぐに火影の執務室に向かった。
黄色いひよこ頭の部下の元気が無い。
最近失せ物探しやら畑の収獲やら地味な任務が続いたので拗ねているのかと思えばそうでもない。任務に不満があろうが無かろうが、常にやかましく元気一杯のナルトだ。
「う〜ん、なんだろうねぇ・・・」
カカシがサクラとサスケの様子を伺うと、この二人もナルトの雰囲気に引きずられてか極端に口数が少ない。
後をとぼとぼとついてくるナルトを目端に捉えながら横を歩くサクラにカカシは声をかける。
「あのさぁ、サクラ。ナルト何で元気ないの?」
「・・・イルカ先生のことだと思うの」
そういうサクラだって普段の元気が無いのだ。あのサスケですらこちらを振り返りコックリ頷く。
「はあ・・・元気が取り得の七班なのにねぇ」
取りあえず任務の報告書を出しにこれから受付所まで行くのだ。直接イルカと会ってみればいい。
「イルカ先生ねえ・・・」
カカシと子供達三人は夕日を背に受けながら受付所への道を歩いた。
「任務お疲れ様でした。ハイ、結構です」
受付所のイルカはいつも通りの笑顔を完璧に顔に貼り付け、にっこりと笑う。
それでも顔の筋肉の動きだけでは誤魔化しきれない疲れが目の下に色濃く漂っている。
心なしかこの二、三日会わなかった間に頬もこけている。
イルカの姿を見つけると受付のテーブル越しに飛びつくナルトが今日はカカシの横から離れようとしない。サクラもサスケも口を噤んだままだ。
三人ともが恩師を気遣わしげに見つめている。
(そんな上辺だけの笑顔で子供は騙されてくれませんって)
そんなことはイルカ自身が百も承知だろうに。やはり様子がおかしい。
はあ、と一つカカシは溜め息をつくと子供達に解散を言い渡す。
それでも尚、もの言いたげに子供達は留まっていたが、「俺に任せて」とカカシが小声で囁くとようやく安心したように三人は受付所を後にした。
用が済んでもその場に留まるカカシをイルカは不思議そうに眺めている。
「イルカ先生、今夜飲みに行きません?」
くいっと杯をあおる仕草をカカシはしてみせる。
「あの、すみませんが・・・」
「残業ですか?」
「ああ、はい。そうなんです」
嘘だ。バレバレだ。
「じゃあ、終わるまで待ってます」
カカシはイルカの言葉を待たずにどっかり受付所のソファーに腰を下ろすと18禁の愛読書をぱらぱらとめくり始めた。
衝立の向こうで小さな溜め息が聞こえたがカカシは無視した。
残業といったくせに定時より一時間をまわったほどでイルカはカカシに声をかけてきた。
足は自然と普段二人が良く飲みに行く居酒屋へ向かう。
いつもの個室に通された後、カカシは驚くほど料理を注文した。
「カカシ先生、そんなに腹減ってたんですか?」
唖然とするイルカにカカシはふっと鼻で笑ってみせる。
「何言ってんですか。あなたが全部食うんですよ。あ、あと今夜は酒もダメです。とにかく食って下さい」
「無茶言わないでください・・・。今日はどうしたんですか?」
困惑するイルカの前でカカシは思い切り眉間に皺を寄せる。
「どうしたんだはこっちの科白ですよ。あんた、ここ最近ちゃんと飯食ってました?迷惑なんですよ。うちの部下達が動揺してるじゃないですか。しっかりして下さいよ」
「す、すみません」
カカシから次々に投げつけられる言葉にイルカは身を小さくする。
「て、言うのは冗談ですが。あ、ほんとに冗談ですよ?」
すぐさまカカシはフォローを入れるが、イルカは冗談を受け流す余裕も無いのか顔を強張らせたままだ。
う〜ん、と内心汗をかき、カカシは収まりの悪い銀髪をかきまわす。
「あの、何かありました?」
テーブルに並べられ始めた料理をぐいぐいイルカの手前に押しやりながらカカシは問う。
イルカは一文字に口を結んだまま答えようとしない。
「・・・あいつと喧嘩でもしました?」
カカシの言葉にイルカは大きく肩を揺らした。イルカとカカシとの会話の中であいつと呼ばれる人間は一人しかいない。
カカシは酒を嘗めながら辛抱強くイルカの言葉を待った。
しばらく沈黙が続いた後、イルカは重い口を開く。
「喧嘩も何も・・・」
イルカの顔は泣き笑いのようでいて自嘲も含んでいて、何とも言えない顔になっていた。
「喧嘩する間もなく、俺は捨てられちゃいましたから」
イルカからは今まで感じたことの無い投げ遣りな空気が漂ってきて、カカシは少し驚く。
「やっぱり、こんな平凡な中忍じゃ、釣合いが取れないですよね。飽きたんだそうです」
「・・・で、あんたそれ鵜呑みにした訳?」
「・・え・・」
イルカが緩慢に顔を上げるとカカシの目にはどことなく険が含まれている。
いつもは飄々としてあまり感情を表に出さないカカシが今は明らかに苛立っている。苛立っているというよりも憤っていると言った方が近い。
上忍の気にあてられてイルカは全身に冷や汗をかく。
「まあね。イルカ先生がそれでいいんなら俺がどうこう言う事じゃない。あんたもいい年なんだからさっさとあいつなんかとは縁を切って、可愛い嫁さんでももらって『幸せ』になればいいんじゃない?」
なぜか自分が責められている様でさすがにイルカも面白くない。別れを切り出したのは向こうの方なのに。
カカシの威圧的な態度に対抗しながらイルカはなんとか反撃を試みる。
「まるで、俺が悪いような仰り様ですね・・・・」
「ん?悪いのはあいつでしょ?イルカ先生から逃げ出したんだから。でも結局良かったんじゃない?今生の別れの方が。死に別れたら辛くて仕方ないでしょ?鬱陶しい思い出で一生縛られるなんてごめんだよねぇ。あんなろくでもない女、いつ任務で死ぬかわかんないし。イルカ先生もあんな面倒な女さっさと忘れちゃえば?」
ガチャンとテーブルの上の皿と料理が音高く跳ね上がる。
テーブルを飛び越えてカカシの胸倉をイルカは掴んだ。
「あの人の事をそんな風に言うな!」
カカシは血管を浮かせて顔を紅潮させるイルカを静かな目で見返す。
「イルカ先生・・・あいつ、今任務に就いてるの知ってますよね?」
「・・・そう・・なんですか?」
カカシの胸倉を掴む手から力が抜ける。イルカはあの日から一方的に避けられていると思っていた。
「・・・知らなかったんですか」
奇妙な間が空いたあとカカシは告げた。
「あいつがいる部隊からの連絡が途絶えました」
冷水を浴びせられたようだった。
喉に何かが詰まってしまったかのようにイルカは上手く息が出来ない。
「・・うそ、でしょう・・・?」
ひび割れた耳障りな声が自分の物だと気付くのにイルカはしばらく時間がかかった。
カカシのベストを握ったままイルカの手は小刻みに震え始める。
カカシは宥めるように軽くイルカの手の甲を叩いた。
「救助部隊に俺も入ってます。大丈夫、絶対見つけ出しますから」
ゆっくり自分のベストからカカシはイルカの手を外す。
「すみません。心配させたくは無かったんですが、いずれは耳に入るでしょうし・・・」
自失したままのイルカをカカシは痛ましそうに見る。
「ねえ、イルカ先生。あいつね、しばらく国外に居続けになるような任務でも信じられない早さで終わらせて、それこそ身を削ってあんたに会いに里へ帰ってくるんですよ。少しでも飽きたんならそんな無茶するはず無いでしょ。あんまり平和ボケしないで下さいよ。俺達も、あいつも忍です。ぶち切れる位にあいつの事好きなら、みっともなくたってしがみ付きなさいよ。・・・悔やんだって、遅い時もある」
それ、全部片付けてくださいね。
テーブルの上の料理を指差し、カカシはイルカを残して店を出て行った。
糸が切れた人形のようにイルカはその場にガクリと膝をつく。
残された料理は喉を通るわけも無く、その表面がじわじわと乾いていく様をイルカはいつまでも眺めていた。
