城内の死兵はなりふり構わずにカカシに斬りかかって来る。返り血を吸い過ぎて装束は重くカカシの体に纏わり付く。
かなりの数を斬り捨て、ひたすらに天守閣を目指す。足元から振動が伝わってくる。時限式の術が発動し始めたようだ。時間もあまりない。城外に逃げ出した敵はアスマに任せればいい。
国主を押さえれば自分の役目は終わる。
狭い階段を一息に上りきり、突き当たりの豪奢な襖を蹴破るとやっと本命に辿り着いた。
「・・・・あんたがここのお殿様?」
「忍び風情が・・・・」
城主はうろたえる事無く、カカシに向け正眼に刀を構えた。
「あんた・・・上に立つ者としての器はそこそこあるのかもね」
カカシの目がすっと細くなる。
「でも、隣の国だけにすればよかった。火の国にまで手を出したのは欲張りすぎたね」
カカシがタンと前方に踏み込んだ瞬間、城主は腹部を押さえて床に沈み込む。溢れ出る鮮やかな赤は磨き上げられた床板の上に瞬く間に広がる。蹲る城主の真横に立ち忍刀をカカシが振り上げると、城主は抵抗するかのようにガツと足首を掴んでくる。カカシはそのまま構わずに忍刀を振り下ろした。
カカシが後方を振り返ったとき、遥か遠くにある城の天守閣が炎の中に消えた。真昼に上がる火柱は昨夜のような禍禍しさはなく、まるで浄化の火のようだった。
昇華されていくものは、はたして何なのだろう。
「首尾良く済んだか」
「ん」
後発部隊と共に到着した鳥の男に風呂敷包みを手渡す。風呂敷の底には黒々とした血痕が浮き上がっている。昨日までは一国を統べる長であった者を鳥の男は乱暴に片手で掴み上げた。
「これが依頼主への手土産か」
「・・・・頼んだね」
「了解」
鳥の男はうっそうとした森の中に音も無く消えた。
自分の役割は無事果たされた。
「・・・つ」
突然カカシの右足首に針を差し込まれたような痛みが走った。
足首を露出させると先程男にきつく掴まれた痕が紫色になっている。ちょうど掌が当たったと思われる部分にはポツリと赤く二つの点が浮かび上がっている。
(しまった―――)
自分の足首を死ぬ間際に掴んだ男。男の掌には仕込み針があったのだ。
傷口をきつく搾り、滲んだ血を舐めてみる。
ツンと鼻を突く異臭、舌先が痺れる。
(シキミだ)
花は美しいが痙攣性の神経毒をもつ。まだ手足の強張りは無いが、吐き気を催し始めればすぐに全身が突っ張るように動かなくなる。解毒が間に合わなければその先にあるのは死だ。
今カカシの手の中にシキミ毒に合う解毒剤は無い。
里に戻る時間は無い。となれば駐屯地の医療班に賭けるしかない。その駐屯地も任務終了に伴い引き揚げの指示が出されたかもしれない。
自分の体が動くうちに辿り着けるかどうかも賭けだ。
心なしかだるくなった両足に思い切り鉤爪を立てる。痛覚はまだ正常だ。
口寄せで忍犬を呼び出し、文を持たせて放つ。カカシはその忍犬のすぐ後を追いかけ始める。
多量に発汗し始めて汗が目に染みる。前を走っていたと思った忍犬の姿はいつの間にか見えなくなってしまった。いつも通りに走っているつもりなのに足が縺れ、何度も転びそうになる。
(・・・来た!)
カカシは暗部面を毟り取ると同時に激しく嘔吐した。胃液が食道を焼く。両膝を地面につき、必死に息を整える。一度歩みを止めてしまったカカシはもう立ち上がる事すら出来なかった。
かろうじて自分の吐瀉物をよけカカシは仰向けに身体を横たえる。カカシの身体はうっそうとした森の茂みの中に隠されてしまった。
全身が引き攣れたように強張り始めてくる。呼吸はどんどん浅く、速くなる。
自分は今、裁かれているのかもしれない。
この世に生かす価値があるか・・・それとも無いのか。
裁くのは誰か知らないが。
(・・・神・・?)
神などいない。
だから、自分は赦される事も救われる事も無いのだ。
歌は聞こえない。
久しぶりに素顔に受ける温い風を感じながらカカシはゆっくりと目を閉じた。
うぉん!と犬の鳴き声がした。
陣地の引き揚げの準備をしていた忍達は声の方を振り向く。集まる視線を物ともせずに茶色の忍犬はすいすいと人ごみの中を走り抜けていく。白の上下の忍服に身を包んだ医療忍者達が忙しく動き回る渦中に忍犬は勢い良く飛び込むとワンワンと吠え立てた。
「たまらんな。誰の忍犬だ」
医療班責任者である男がひょいと茶色の中型犬の首根っこを掴み上げる。すると忍犬の首に結ばれた額当ての隙間から文が落ちた。中身をサッと確認するなり男は大声を上げた。
「おい!樒の解毒剤はあるか!」
「何事ですか?」
男の背後にいたは突然の怒鳴り声に驚き、普段色を失う事など無い上司を見上げた。
「あー・・、一人敵の毒にやられたらしい。時間も無い。俺が行って来る」
「そんな、今主任に抜けられては・・。負傷者もいます。里まで主任には指揮を取ってもらわなければ皆が困ります。かわりに私が行きます」
「それがな、相手が悪い。俺ならまあ、めったな事にはならないだろう。だからな、お前は皆と引き揚げろ。いいな?」
娘ほどに年の離れた自分の部下に経験を積んでもらいたいと同時に、危ない目にも遭わせたくないと思っているのだ。
男の公私混同ぶりには思わず眉尻がさがる。
だが次の瞬間には任務に着手する忍の顔に戻った。
「負傷者と荷物を抱えた道行きには男手が必要です。私は運び手としてあまり役に立たないでしょう。その事のみ考慮しても私が行くべきです」
「・・・お前が正しいな」
「行きます」
は男に向け安心させるようにふわりと笑みを浮かべると、忍犬のあとを追い走り出した。
忍犬は森の中の道無き道をひた走る。も遅れる事無くその後に続く。
自分達のいた野営地からはだいぶ離れてしまった。もう少しで隣国の国境へ差し掛かる。
戦をした相手国に単独で侵入するのは避けたい。この近くに負傷者がいればいいが。
うぉん!と高く忍犬が鳴いた。行く手の少し先で忍犬はをふり返り激しく吠え立てる。
「お前の主人はこの近くに居るの?」
生い茂る草むらに鼻を突っ込み忍犬は忙しなく動き回る。
は中腰になって草むらを掻き分けた。
茂る草を手で押さえたままの動きが止まる。
装束の胴当ては元の白い色を殆ど残しておらず、朱に染まっている。
無防備に素顔を晒して横たわる男の髪は銀色だった―――
しばし自失した後、は我に帰る。
解毒剤が必要なのはこの男だ。は務めて無心に作業に取り掛かる。
は男の傍らに膝をつき意識が既に無い事を確認する。胸のポケットから小瓶を取り出し、中の丸薬を口に含み噛み砕く。丸薬をそのままに水筒の水を口に含み、軽く男の喉をそらせるとはピタリと男の唇に自分の唇を合わせ一気に薬と水を流し込んだ。気道をそのまま確保し、男が薬を嚥下した事を確認する。
男の身体を調べると男を染める血は全て敵のもので男自身には怪我が無かった。身体を探ってその冷たさに血の気が引く。
男の意識は混濁していて、薬が間に合ったかどうかまだわからない。
男の白い首筋に震える手をあてると規則正しく脈打つ振動が伝わる。それは思いのほか力強く安定しており、はようやく安堵の息を吐いた。
いつの間にか男の忍犬もの傍らにうずくまりじっとしている。
素顔を見てしまった。
青ざめているが、その秀麗な造りに目が惹きつけられる。くっきりとした二重の瞼を濃い銀色の睫が縁取っている。睫は頬に影を落とすほどに長い。顔の左半面を上下に走る傷は引き攣れる事無く滑らかで、その傷により美しく整った顔に精悍さが加わっている。
男を前に心がざわめくのを認めざるをえない。
はそっと男の剥き出しの肩に手を触れた。体温も戻りつつある。暗部の刺青の下には昨夜が巻いた包帯がそのままで、は纏まらない考えを放棄して包帯の交換を始める。
もくもくと作業を続けるうちに男の口から小さく呻き声が聞こえた。
男の顔に視線を走らせると、軽く眉根を寄せたまま目を開ける気配はまだ無い。薬が効いたのだ。もうじき男は意識を取り戻す。
暗部である男が素顔を晒している中、自分がこの場に残っているのは良策ではない。かといって、意識の無い男を残したままこの場を離れるのも躊躇われる。
残るべき理由、去るべき理由、いくらでも挙げる事が出来る。
それでも、全てを凌駕する想いはただ一つ。
もう一度この男の声が聞きたい。
どうしてこうも自分はこの男に執着するのか。自分ではどうする事も出来ない感情に翻弄され続け、は叫び出したくなった。
前触れなく押し付けられた熱は瞬時に全身を駆ける。
男の左手がゆるくの手首を掴んだ。手袋の先についている鉤爪がの肌に食い込む。の身体はその場に縫い止められてしまった。
男の瞼がうっすらと開いていく様をは固唾を飲んで見守る。
双眸がうっすらと開き、やがての姿を捉える。ひたと見つめてくる男の左眼は燃えるように赤かった。
「・・・幻かな」
男の声はひどく静かだった。
男は躊躇い無くを引き寄せ華奢な身体を胸の中にすっぽりと抱き込んでしまった。思いもよらない出来事には男の腕の中で身を硬くする。
「歌を聞きたかった・・・。けど、あんたが最後に傍に居てくれるなら、それでいい」
男は焦点の合わない目のままで、に穏やかな笑みを向けている。男が見せる微笑をは我を忘れて見入る。自分の心音が鼓膜を激しく叩く。
の腕は男の胸の中に折りたたまれてしまい、男の拘束は解けない。
思考が停止しそうになりながらもは身体の自由を奪われたまま、懸命に男に声をかけた。
「しっかりして下さい。あなたは死にません。解毒の効果があったんです」
「・・・・」
徐々に夢から覚めるように男の瞳に力が戻り始める。それに伴いの身体を拘束する腕の力がますます強まり、息苦しさには眉根を寄せた。
「・・・うそ・・」
赤と蒼の瞳は限界まで見開かれる。
「もう・・会うことも無いと思っていたのに」
男は時を忘れたかのようにを凝視する。
「どうしてここに・・・」
「あなたの、犬が」
自分の真横にぴったりと寄り添い静かに尻尾を振る忍犬にようやく男は気付いた。男が慈しむように犬の頭を撫でると小さな煙とともに忍犬は消えてしまった。
男は苦しげなの様子に気付き腕の力を緩める。しかし、緩めただけで未だ男の拘束は解かれる事は無い。
「あなたの素顔を見ました」
の言葉を受けても男は静かに水を湛える湖面のように揺らぐ事がない。
「殺すのでしょう?」
男は片手をつき、をもう一方の手に抱いたままで上体を起こした。
「殺さないよ」
「でも、素顔を見てしまったのですから・・・」
「殺さないよ」
男は事も無げにそう繰り返すだけで、は逆に困り果てる。
「何故ですか。後々面倒な事になるでしょう?」
男の口元には笑みがこぼれる。
男の仕草ひとつひとつには目を奪われる。
「もう、駄目だと思った。でもあんたが俺を生かしてくれた。あんたがこの世の何処かで生きてさえいてくれれば、俺もいつか人に戻れるような気がする。こんな事言われても・・・迷惑だろうけど」
ごめんね、と男は首をかしげてを覗き込み、また柔らかく笑った。
「もうあんたの目の前には姿を現さない。あんたに近づいたりしないから。でも、俺の知らない所で構わないから、生きていて」
何かを振り切ったかのように男の顔には一点の曇りも無い。
男の言葉はの胸を切ないほどに締めつける。
自分の中の醜さも、偽りも、全て見透かされて、その上で男は自分を必要としてくれた。
この次に会える保証は何処にも無い。後悔したくなかった。
男の首筋に鼻を埋め、は自分の意志でしっかりと男の背中に腕を回す。
男は驚いたように大きく身体を揺らした。
「・・・俺のこと、怖くない?」
そっと顔を起こし、は男の顔を正面に捉える。
「怖くなど・・・。あなたはただの人なのに」
の瞳にはみるみる涙が盛り上がり、笑顔がほころんだ拍子に雫が頬を伝う。
男は箍が外れてしまったように余裕無くを引き寄せた。
迷う事なく涙に濡れたの唇を男は塞ぐ。一度離れると今度は深く唇を重ねてくる。男の舌が触れる個所全てが焼けるように熱く溶けてしまいそうだ。口内に深く侵入され何処かに攫われてしまうかのような感覚には慄き、強く男にしがみ付く。
ゆっくりと合わせた唇が離れ、きつく閉じていた瞼をはようやく開いた。
「・・・ごめんね」
謝るばかりの男に、構わないのだ、とは微笑を返す。
本当に構わない。
だからどうか、私の事を手放そうとしないで。
男の立場も自分の立場も忘れて今ここにある衝動に溺れてしまいたかった。
「ごめん・・・・・」
男はゆっくりと親指の腹をの額に押し当てる。
「何、を?」
「殺したくないから、術をかけるね。俺と出会った事を、忘れてね・・・・」
男の蒼い右目からは一粒涙が零れ落ちた。
は愕然として目をみはる。
「嫌・・です・・・。嫌です!忘れたくない!」
「危ない目に遭わせたくない。お願いだから言う事聞いて」
請負う任務の性質上、暗部はその素性を一切明らかにしない。その暗部の素顔を知るということは里の機密を握るということだ。
男は宥めるように、の頭を撫でる。それでもいやいやと頭を振るに嘆息して、男はしばらくを抱きかかえたままその背中を撫で続けた。
「俺のこと、忘れたくないの?」
は男の腕の中でコクリと頷く。
ああ、と男は歓喜の声を上げを更にきつく抱きしめる。
「ありがとう・・もう、充分」
「嫌です。充分なんかじゃない。これからなのに」
涙に頬を濡らしながらもは真っ直ぐに男を見上げた。
「嬉しい・・・。嬉しいな」
男は噛み締めるように言葉を紡ぐ。
男の蒼い右目からまた一粒、涙が落ちる。
「じゃあね、鍵を預けておくね。俺はいつかまたあんたに会いに行くから、そしたらすぐ俺の事思い出せるようにあんたの頭の中に『鍵』を預けておくね」
子供にでも話すかのように言い聞かされ、ようやくは頷いた。
が記憶の操作を承諾すると穏やかだった男の顔が一変し、今度は痛ましいほど哀しげに歪んだ。
男の想いが手に取るように伝わってきて、の決心が揺らぎそうになる。
辛いのは自分ばかりではない。
は自分に言い聞かせるように男に云う。
「ずっと、あなたを待っていますから・・・」
たとえ記憶が無くなっても、自分はこの男を待ちつづける。
「術がかかった後意識がなくなるけど、俺がきちんと仲間の所まで送り届けるから」
「はい」
もうは抵抗する事無く男に身を任せて目を閉じた。
「必ず、会いに行くからね」
心地よく響く男の声が身体に不思議な浮遊感をもたらす。
「はい・・・」
「次に会えた時は――――」
最後の言葉を聞き終わる前には意識を手放した。
月の光が目に痛いほどに眩しい。
こんな夜は何故だか心が騒ぐ。
訳も分からずに情緒が不安定になる月の明るい夜がは苦手だった。
この事を意識し始めたのは、二年前の国外任務から帰ってしばらくしてからの事。
任務は成功を収めたが、同朋の多くが命を落とし、初めての戦でも色々な事を学んだ。疲れが溜まってしまったのか情けないことに里に帰還する際に倒れてしまい、気がつけば病室のベッドの上だった。記憶は途切れていて、上司や同僚達には迷惑をかけてしまったらしい。
その後すぐに回復しは通常任務についていたが、ふとした拍子に感じる以前の自分との差異には違和感を覚えていた。
普段の生活には支障が無いが、明らかに以前は持たなかった感情。
月の明るい夜。夜の河原。二年程前から急に苦手になってしまった。
どうしてもその場に留まっていられずに逃げ出したくなる。
今夜も泣きたくなるほどに月が明るかった。
心がざわざわと落ち着かない。は急き立てられるようにやや小走りに医務室から飛び出した。ところがドアを開けたと同時に目の前に人影が立ちはだかり、は文字通り飛び上がってしまった。
「・・・と、すいません。驚かせちゃいました?」
が恐る恐る後ろへ下がると医務室の照明の中に、のっそりと猫背の銀髪の男が姿を現した。
「はたけ上忍」
ふう、とは息を吐き出す。
はたけカカシは半年ほど前から上忍師として里内勤務に従事している忍で、部下の生傷が絶えないカカシは何かと医務室に足を運ぶ機会が多かった。部下を伴う事もあれば、医薬品だけをもらいに来る事もある。
カカシは忍の中では里内屈指の実力者でその名は国外にも轟く。噂に疎いの耳にまで『はたけカカシ』の名声は届いており、その有名人を前にして初対面の時は面食らってしまった。けれどもその名声と顔を殆ど隠した怪しい風体に反しカカシは礼儀正しく、意外と話し易くもあり、この半年のうちに二人は顔を合わせれば軽く世間話をする程度には親しくなっていた。
「こんな時間に、どうされました?」
「や、任務前に支給されて余った薬を返しに来たんです。けど・・・帰る所でした?」
下位の者に対し常に気を使うカカシにはにっこりと微笑んだ。
「構いません、預かります。逆に足りない物はありますか?」
「えーと・・・じゃあ、兵糧丸ください」
「少々お待ちくださいね」
はくるくると医務室の中を駆け回り薬品をしまい、兵糧丸をカカシに手渡した。
「あと他に御用はありますか?」
「いえ、もう結構です。・・・・あの、もう帰るんでしたら、よかったら俺、送ります」
カカシからの初めての申し出にはどうしたものかと考え込んでしまった。それほど親しくもないのに、しかも相手は自分よりも上位の上忍で、受けるべきか断るべきか図りかねた。
「あー・・。すみません。あなたにも都合がありますよね、彼氏が迎えに来るとか?」
が固まってしまったのを勝手に解釈したカカシには苦笑交じりに訂正する。
「いいえ。そんな事はありませんが、上忍の方に送っていただくなどとんでもありません」
の言葉を受けてカカシは唯一露出した右目を細めて微笑む。
「階級なんて気にしないで。・・・何だか、あなたが怯えていたようだったから気になって」
医務室から飛び出したところで、カカシと鉢合わせしてしまったのだ。
「何かありました?」
カカシは上から首を傾げてを覗き込んでくる。
月が明るいからなどと自分でも理解できない事をカカシに言える筈もなく、その後はいくら大丈夫だと断ってもカカシも折れる事なく、はカカシに家まで送られる事になってしまった。
月明かりを背にして二人は歩き出す。前方には月光を受けて二つの黒い影が闇に混ざり合うことなく白い道にくっきりと映し出されている。
「月が綺麗ですね」
普段は寡黙で必要最低限のことしか口にしないカカシが様子を伺うようにに話し掛ける。それほどに今のは表情が曇り、心なしか顔色も悪かった。
「大丈夫ですか?」
気遣うカカシには何とか笑顔を作る。
「本当に、なんでもないんです。ただ、月が明るい夜が苦手なんです。・・・変ですよね」
「どうして?」
「・・・私にも、良くわかりません。でも、こんな夜は何故か落ち着かなくて、辛くなります」
「月は、嫌いですか?」
何故かカカシは哀しそうだった。
「俺は今夜のような月夜が好きです。大切な思い出があるんです。大切な人との・・・思い出です」
「・・・素敵な方なんでしょうね」
自分に個人的なことを話してしまっていいのかとも思ったが、真摯に語り始めたカカシをは止める事はしなかった。
の言葉にカカシは頷く。
「その人とはしばらく離れていたんです。そうしたら今度は、その人の前に姿を現すのが怖くなってしまった」
「どうしてですか?」
「もう、俺以外にいい人がいるのかもしれない。それに、今更会いに行っても迷惑なのかもしれない」
あのはたけカカシにこれほどに焦がれる人が居るなんて。寂しげなカカシをは何とか元気付けてやりたかった。
「はたけ上忍だったら大丈夫です。相手の方もきっと待っていらっしゃいますよ。」
の根拠の無い励ましにカカシは思わず苦笑してしまった。。
「申し訳ありません。出過ぎた事を」
は慌てて謝罪した。
「ありがとう。そうだといいんだけど」
赤面するにカカシは右目だけで微笑む。
これほどまでに内面をさらけ出すカカシには内心戸惑っていた。
「あなたには・・・大切な人はいますか?」
「私!?ですか・・・?」
突然に自分に話を振られは驚いたが、何だかはぐらかす事が許されないような雰囲気にゆっくりと自身の事を話し始める。
「大切な人はいません」
「そう、ですか」
しばらくは無言で二人は足を動かしていたが、再びカカシが口を開く。
「でも・・・モテるでしょう?」
は笑ってしまった。カカシこそ、くの一の中でも、民間人の中でも羨望の的であるのに。
「はたけ上忍にはとても及びません」
「・・・昨日、告白されていたでしょう」
は目を丸くしてカカシを見上げる。
「ごめんなさい。偶然見かけてしまって」
カカシはばつが悪そうにから目線をそらし、更にもう一度小さな声で謝る。
「ええ・・・でも、お断りしてしまいました」
「・・・どうして?」
何故ここまで不用意に自分の事を話してしまうのか。は不思議に思いながらも聞かれるままに答える。
「相手の方には申し訳ない事をしましたが、この人じゃないって思ったんです」
カカシは足を止めてと向き合う。
「笑わないで下さいね。いつか、迎えに来てくれる気がするんです。この人だって思える大切な人が。子供じゃあるまいし、こんな事考えるなんて恥かしいですけど・・・」
は自嘲混じりに答えを返すとカカシの顔からは笑みが消えていて、は口の端の笑いを収めた。
「月は、月は嫌いですか?」
「はたけ上忍?」
カカシが真剣な顔で問い詰めてくる。でもその意図が分からない。
「月が明るい夜は嫌いですか?二度とあんな夜は来なければいいと思っているの?」
(二度と・・来なければいい?)
何をこうも必死になるのだろう。カカシは辛そうに眉根を寄せている。
「どうして泣くの?」
カカシに親指の腹で目元を拭われた時、ははじめて自分が泣いている事に気付いた。
「わか・・・わからない。でもこんな夜は辛くて、苦しくて、二年前からずっと・・・・」
あとからあとから流れ出すの涙をカカシは何度も指の腹で拭う。そのカカシの指は僅かに震えていた。
「、怒らないでね・・・」
出会ってから初めて名前を呼ばれ、はハッとしてカカシを見た。
口布越しにカカシの唇がゆっくりと動く。
『今日は歌わないの?』
の眉間の奥でパリンと硬質の音がした。
「ああっ!ああああ!!」
物凄い勢いで記憶の断片が渦巻き、濁流となっての頭の中に流れ込んでくる。頭を外側から締め付けられるような痛みが襲う。身体をしならせて後に倒れこむを素早く抱き込み身体を反転させ、カカシはろくに受身も取れずに背中から地面に沈み込んだ。
「!」
一分一秒が気が遠くなるほどに長い。耐えがたい痛みには必死でカカシの胸に縋り付いた。
ばらばらに渦巻いていた記憶の断片がぱたぱたと定められた位置に収まっていく。
「あ・・あ・・」
カカシの腕の中での身体の強張りが徐々に解けていく。
「?何ともない?平気?大丈夫?」
を抱きかかえたままカカシは上体を起こした。
涙に濡れたままの瞳で呆然とカカシを見上げていただったが、唇を噛み締めてキッとカカシを睨みつける。
言葉も出ないのかは無言のまま、力任せにカカシの胸を両手の拳で叩きつづけた。カカシは叩かれるに任せてしばらくの好きにさせた。
「・・・怒らないでって、言ったのに」
渾身の力で殴りかかってもカカシは全く動じない。の興奮は鎮まるどころか悔しさのあまりますます高まってしまう。
「どうしてすぐに会いに来てくれなかったんですか!?その上半年も知らない振りするなんて!!」
「手、痛くなるでしょ」
の振り上げた拳は両方カカシの手に一纏めに捕らえられ、二年前と同じようにカカシの胸の中に折りたたまれてしまう。
息が出来ないほどにきつくカカシはを抱きしめた。
「ごめんね・・・怖くて。俺の居場所がの中にまだあるのか、自信が無くて」
カカシが搾り出すようにの耳元に囁く。
「馬鹿です・・はたけ上忍」
突然カカシがの両肩を掴んでの顔を正面からじっと見つめる。
「違う。はたけ上忍じゃなくて、カカシ」
「えっ・・・」
の顔が瞬時に紅潮する。
「カカシ」
「・・カ・・」
「ん」
「カカシ、さん」
言った途端にの耳から首筋までもが真っ赤に染まる。
「あはは。ま、可愛かったからいいか」
右目を弓なりにしてにっと笑うと、カカシは再びを胸の中に抱きこんだ。
「ああ・・・嘘みたい。夢みたい。またこうして触れる事が出来るなんて・・・」
カカシの自分を抱きしめる腕も耳元で囁く声も少し震えていて、の怒りは霧散してしまった。
もし自分がカカシの立場だったら、記憶を無くしても不都合無く生活する相手を前に足が竦んでしまうだろう。相手にとって自分はもう必要ないのではないかと。
きっと記憶がある分カカシのほうが辛かった。
「会いに来てくれて、ありがとう」
もきつくカカシの背中に腕を回す。
「暗部から抜けるのに時間かかっちゃって。遅くなってごめん」
「もう、いいです」
しばらくして気持ちが鎮まってくると、は自分達が道端で座り込んで抱き合っているのが急に気恥ずかしくなってきた。
「あの、カカシさん。ここでは人目につくので・・・」
「いいじゃない」
いつの間にか口布を外して無防備に素顔を晒したカカシは蕩けるような笑顔を見せる。
「こんな風にやっと素顔を晒してに会えるようになったんだから」
その事を実現させる為にどれほど苦労を重ねてカカシが心を砕いてきたのか、には想像もつかない。湧き起こった羞恥心など吹き飛んではカカシの背中に回した腕に再び力をこめる。抱きしめても、抱きしめても足りない。
の耳元でカカシがくすくすと笑い始めた。
「でも、さすがに俺達がっつき過ぎかなぁ?」
そういうカカシもを腕の中からなかなか離せずにいたのだが。
カカシの言葉には何処まで赤くなるのかますます頬を染める。
を抱きかかえたままカカシは立ち上がる。
「が俺を赦してくれたから、今こうして生きていられる。生きている限り、俺はの物だよ」
の手を引いてカカシはゆっくりと歩き出す。
違う。二年前、赦されて、救われたのは自分だ。
戦地で人を救えと教えられながら、戦地で人を切り捨てろと命を受ける。戦場での理想と現実の中で心を失いかけた自分をカカシが繋ぎ止めてくれた。自己を偽らず真っ直ぐに前を見据えるカカシがを必要としてくれた。
それから記憶をなくしても、は戦地で歌い続けた。凄惨な戦場に身を置きながら人の死を嘆き、命を惜しみ続ける事が出来た。
「月が明るい夜は好きです。大切な人との思い出があるんです」
がカカシの言葉をなぞる。
月明かりのもとにいつも抱いていた身を切るような切なさは、いつの間にか跡形も無い。
「嬉しい・・・。嬉しいな。幸せすぎて、俺、絶対死にたくない」
カカシは笑う。
幸せすぎて死にそう、などと間違っても言わない。
笑いに紛らせながらもそれがカカシの切なる願いであるとにはわかる。
カカシはを振り向かずにゆっくりゆっくり歩を進める。手はしっかりとに繋いだまま。
は月明かりに照らされた少し猫背の背中を飽きる事なく眺め続けた。
