初めての戦場で、腕の中で消えてしまった命に打ちのめされていた。救えなかったのではない、救わなかったのだ。
堪らずに逃げ出した自分の目の前に突如降り立った男は昨夜の鬼神だった。
男の言葉は胸を貫いた。
偽善者、と。
獣の面の空虚に開いた穴の奥から射抜くような視線を感じ、顔を上げる事が出来なかった。
自分の所業を全て見透かされた気がした。
見殺しにするクセに戯れに情けをかけるのかと、自分の行為の醜さを突きつけられた様だった。
男が去った後、天幕に戻ろうとしたが足が竦んで動かない。
どれ位そうしていただろうか、ぽんと肩を叩かれた。同じ班の同僚だった。
「・・・何人か死んだか」
慣れた物言いには声を詰まらせる。
戦場に慣れないに対してか、慣れてしまった自分自身に対してか、同僚は悲しげに笑った。
「後は俺が代わる。お前はいい加減体を休めろ」
仮眠を取っていないこともばれていた。
言われるままにはその場を同僚に任せ、無言で重い足を自分の天幕へと引きずった。
天幕の入り口をくぐると、別の班の同僚と名も知らない戦忍のくの一が額を突き合わせるようにして眠っている。二人の顔には疲れが色濃く出ている。
自分も少し眠らなければ。
二人の間に出来た隙間に身を滑り込ませ無理やりに目を瞑る。
眠らなければと焦るほどに先程の男の事が頭から離れない。
片端。あの男が。
歌を歌った事がいけなかったのか。男からは自分に対する苛立ちが感じられた。
心が脆く、考えも甘い自分に腹が立ったのだろうか。
取り留めの無い考えに捕らわれ始め、改めてしっかりと目を瞑る。すると瞼の裏には昨日の夜の、流れるように舞う男の姿が浮かび上がった。
記憶の中の男は美しかった。名前はもちろん、顔すら分からないというのに。
あの男を恐ろしいと思う。
同じ強さであの男の舞う姿をもう一度見たいと思う。
何故。どうして。
問うてみても答えは見つからない。
自分は鬼に魅せられてしまったのだろうか。
(・・・馬鹿な事を)
は自分に対して苦笑する。生まれて初めて暗部に接し、悪い意味で精神が興奮しているのが自分でわかる。
頭を冷やさなければ。ここは戦場だ。
とても自力では眠れそうに無く、は薬の力を借りてようやく眠りの中へ落ちていった。



「そろったか」
日もかなり傾いた夕刻。本陣の本部の置かれた天幕に暗部二人が現れた。
すでに天幕の中には総大将の他に、本陣、左翼、右翼の部隊長、更にその下につく中隊部隊長が集まっていた。
表舞台に出てくることが殆ど無い暗部が正規の部隊と共に任務につくなど異例の事で、しかもその暗部は噂が絶えることの無い「片端」である。
天幕の中には言い様の無い緊張が走る。
「時間も惜しい。話を進める」
その片端である犬の男が中央に地図を広げる。一方鳥の男は後ろに下がり腕を組んだまま犬の男に全てを任せる構えだ。
「前線はだいぶ押し戻されている」
犬の男は地図の上に赤のペンで流れるように曲線を描く。
「この線まで俺達は敵の侵入を許している。この地図と同じ物なんてとっくに敵方も手に入れている。俺達には地の利もあるわけじゃない」
犬の男は地図上に丸と三角で何箇所かに印をつける。
「俺達の戦力はこの三箇所。敵は俺達を囲うように右翼、左翼に戦力を展開し始めた。このまま数に物言わせて俺達を飲み込もうって腹だろうな」
「で、どうする」
総大将である髭の男が先を促す。
「まず、山間部の右翼は放っておいて、敵方左翼を叩く。俺達は右翼と本陣の戦力を一つにまとめる。左翼は部隊を二つに分ける。木の葉左翼の役目は、一つは補給線を断ち、敵方の物資を残らず焼き捨て、敵左翼に精神的揺さぶりをかける事。もう一つは他の部隊よりやや突出している敵方左翼の退路を断つように見せかける事。もちろん敵方左翼からの敵右翼、敵本陣への伝達も完全に遮断し孤立させる。これは俺が指揮を取る。これで、敵左翼は前に進むか、後方の渓谷に逃げ込むか二択を迫られる。あんたは総指揮を取り、敵左翼を迎え撃て」
犬の男は髭の男に顎をしゃくった。自分達の総大将にぞんざいな態度をとる暗部に思わず他の忍達はいきり立ったが、髭の男は部下達を片手で制した。
「分かった」
「俺達はその後渓谷で待ち構えて、血迷って逃げてきた敵を一人残らず潰す。あんた達も左翼部隊を一人残らず始末してくれ。捕虜を生け捕る必要も無い。例外無く殺せ」
天幕はシンと静まり返る。
「敵の包囲網が完成する前に敵右翼、左翼を各個撃破出来なければ俺達は全滅する。各部隊の移動は速やかに、且つ絶対に敵には気付かれるな。日が昇りきる前に敵方左翼を片付ける。その後間を置かず、俺達左翼二部隊は反転し山間の敵方右翼に同じ方法で接触する。あんた達主力部隊はそのまま待機して、山から這い出てきた敵方右翼を同じように叩けばいい。明日、日没前には敵戦力の三分の二を消す。その後夜陰に紛れて国境に布陣する敵本陣を叩く。その時には敵と俺達の戦力は完全に逆転している。逃げ延びようとする敵を一人も逃すな。一日で領地内の敵を掃討する。以上」
天幕の忍達は声も無く犬の男を見つめ続ける。
これが今まで自分達が蔑んできた人斬りの「片端」か、と。
言われるままに任務を遂行する唯の戦の道具だと思っていた男は、的確に状況を把握し、恐ろしく冷徹に作戦を立てた。異論の余地は無かった。
「各自、部隊を動かし準備にかかれ。左翼部隊長は適正を判断して部隊を二つに分けろ。散!」
犬の男の声に弾かれたように忍達は天幕を後にした。
天幕の中には暗部二名と総大将が残る。
フッ、と犬の男が鼻で笑った。
「でしゃばって悪かったねえ?」
「思ってもねえ事言うんじゃねえよ」
「あ、ねえ。あんた先に左翼と合流しててくれない?」
「了解」
鳥の男は天幕から姿を消した。


「お前・・・三日って言ったよな。一日で敵を殲滅して、その後は」
「敵国の城を落とす」
アスマは目を剥いてカカシを見た。
「任務にはそこまで含まれてねぇだろうが」
「俺達は依頼主の命により、隣国から仕掛けられた戦を完全な勝利へと導くのさ。依頼主への手土産は敵国大名の首」
「待て!それ以上は聞きたかねぇよ。俺はお前の言う通りに部隊を動かす。それでいいな?」
カカシは面の奥から忍び笑いを漏らす。
「アスマは頭がいい。俺、あんたのこと割と気に入ってるよ」
「・・・お前とは間違っても戦いたくねえな」
「俺も」
「けっ、よく言う」
アスマは片手を払い、もう用はないとカカシに背を向けた。
「じゃ、頼んだね」
背後のカカシの気配が消える。
「・・・胸糞わりぃな」
もはや忍んで戦う戦ではない。匂いが残るため任務中は決して吸う事の無い煙草に火を付け、アスマは思い切り紫煙を肺に吸い込んだ。
もはや木の葉だけの問題ではない。やはり火の国も動いた。
大国は辺境の小国を二つまとめて潰そうとしていた。



西の空が煌々と赤く燃え上がっている。こちらまで山火事が燃え広がりはしないかと心配したが、延焼を防ぐ策を施している為すぐにも火は鎮火するらしい。日が沈む頃に突然あがった紅蓮の火柱はそのまま日が落ちても空を赤々と照らし続ける。
今日の戦が勝利に終わったと聞いて安堵はしたが、空を覆う毒々しい赤に照らされての気分が晴れることは無い。
昨日から一日が過ぎ、命を取り留めた重傷者は片手に足りるほどしか居なかった。今日新たに運び込まれた負傷者がほとんど居なかった事だけが救いだった。
は冷たくなった同胞から額当てを外し、忍の登録番号が掘り込まれたタグを外す。忍が死んだ後生きていた痕跡として残るのは、慰霊碑に刻まれる名前とこの二つの遺品だけだった。遺体は骨まで残さずに荼毘に付される。
肉が焼ける匂いに鼻は麻痺してしまいもう何も感じない。
一つの死に立ち止まっては居られない。自分の心までもが冷たく麻痺していくようでは強く自分の胸元を掴む。昨日の少年を思い出しても自分が揺さぶられた感情をもう思い出す事が出来ない。感情が欠落してしまった。
もう、人の死に何も感じる事が出来ないような気がする。
自分こそが片端ではないか。
両手に額当てとタグを抱え、はふらりと一歩踏み出した。
!何処へ行く」
「遺品を清めに・・・」
の声は力なく空中に吸い込まれる。一緒に行くという同僚の申し出を頑なに拒んでは逃げるように河原へ足を向けた。
夜も更けて、敵陣から遠く離れているとはいえ単独で味方から離れるなど普段のならしなかっただろう。
人の傍に居るのが辛かった。自分の冷酷さが周りの人間に知れてしまうようで居た堪れなかった。
自分の胸にまで届く草を掻き分け、無心に進むと突然視界が開けた。夏の盛りだが雪の国に近いこの小国は日が落ちればひんやりと冷気が満ちる。河原からも湿った冷気がの元まで流れてくる。小石が敷き詰められた河原を音も消さずに歩き、足が濡れるのも構わず緩やかな浅瀬の中にある手頃な石に腰掛けた。
透き通った水流に誰の物とも分からない額当てを浸す。鉄板部分の血痕は何とか落ちるが、布の部分の赤黒い染みはどうしても落ちない。黒々とした染みを落とそうと必死になっていたが、ははっとする。愛しい者の痕跡はそのまま残された方がいいのだろうか。は慌てて水流から額当てを引き揚げた。
はそれ以上どうする事も出来ず無言で額当てを握りしめた。
「今日は歌わないの?」
突然頭上から声が降り注いだ。
振り向かなくても声の主はわかる。ふわりと冷気に乗って濃い血臭が漂ってくる。
「歌は、嫌いなのでしょう?」
昨日は歯噛みしたくなるほどに震えた声が今日はするすると口元から出てくる。まるで自分の声とは思えない。力なく座り込む自分、自分の背後に現れた銀色の鬼神、全てが他人事のようだ。
「あんた、殺されたいの。敵が潜んでたらどうするの?」
ぱしゃりと水音が立つ。水滴がの顔にまで跳ね上がった。落としたままの視線の先には川の水流にくるぶしまで浸かった暗部装束に包まれた足が見えた。
はゆっくりと顔をあげる。
月明かりを背に銀の鬼はを見下ろしていた。今日は外套も羽織らず、男は装束に包まれた均整の取れた肢体を露にしている。
「歌わないの」
口を開こうとしないに男は焦れたように重ねて問う。
歌えば人を蔑むくせに、どうしろというのだろう。は無言のまま男を見上げる。
目が痛むほど今夜の月の光は強い。月明かりを背に立つ男の表情は例え素顔を晒していても読み取れないだろう。何故、歌にこだわるのだろうか。
「歌・・・どんな意味があるの」
「・・・血潮は現世の罪を洗い流すのだと。生まれ変わって新たな道を進むために・・・」
「・・・・血・・」
男は掌を上にしてゆっくりと両腕を持ち上げる。目が眩むほどの月光の中で自分の身体を確認するかように。
ふと、の鼻先を新しい血臭が刺激した。
「・・怪我を・・?」
「たいした事無い」
男の上腕、外側にかなり深い裂傷がある。血はまだ止まっておらず、緩やかな水流に滴り落ちては細く赤い線を川の下流に向けて描いていた。
「・・っ、手当てを!」
急激にの目に力が宿る。まるで今初めて男を見るかのようにしっかりと獣の面を見据える。
「俺の血で正気に戻ったの?さすが医療忍者だね」
男は面白そうにくつくつと面の奥で声を漏らし始めた。
は一瞬躊躇ったが、男の手を取るとそのまま川岸に引っ張っていく。男は抵抗しなかった。
手頃な場所で男に腰を下ろさせるとポーチから携帯用の医療パックを取り出す。
男は全く抵抗を見せず、が自分の身に触れるのを許している。
消毒液で傷口を洗浄し、縫合する。麻酔などなく、痛みは相当なものである筈だ。それでも男は身動ぎせずじっとしている。
「あんた、俺が怖くない?」
「・・・恐ろしいと思います」
恐ろしいかと問われればそう思う。でもその一言で一括りにしてしまうには男へ対する感情は複雑に絡み合い、自身も整理を付けられないでいた。
「・・・・そう」
男はそれから治療が終わるまで口を開かなかった。
は化膿止めを直接傷口に塗りこみ、その上にガーゼをあて、包帯で覆う。
「抗生物質です。飲んでください」
言ってから、は気付く。飲む為には男は面を取らなければならない。錠剤を持ったままの手は軽く宙を彷徨ったが、男はの手を捕らえ薬を受け取った。
が視線をそらす間もなく、男は無造作に面を上にずらし口元だけを露出させた。
鬼神は、片端と呼ばれる者は、人だった。
露出した腕に比べ日に晒されることもない顔は透き通るように白く、肌は滑らかで、月光を反射して強くの目に焼きついた。薄く形の良い唇。美しくラインを描く輪郭。男は掌の錠剤を赤い舌先で器用に掬い上げて飲み込んだ。すぐさま面は降ろされる。
「・・そんなに不用意に素顔を晒して、いいのですか・・・」
の声が微かに掠れる。
「そうだったね」
男は正面に跪いているにするりと手を伸ばすとその細い首に手をかけた。
「暗部の顔を見たなら、殺されても仕方ないよね」
男がの身体に触れるのはこれが二度目だ。触れられた個所がじんと熱を持つ。
男の指に僅かに力が入る。男の長手袋の鉤爪がの皮膚に食い込みうっすらと血が滲んだ。
はそっと目を閉じる。
死を望んだ事は一度もない。それでもこの男の手にかかるなら。
静かに目を閉じたまま、はこの男から与えられる死を思い描く。
その考えはに驚くべき恍惚感をもたらし、無意識にひくりと喉が震えた。
「・・・やめた」
時間にすればほんの一瞬だったろう。
ぱたりと男の手が下ろされた。
突然に襲われた先程の激情に戸惑いながらはゆっくりと目を開ける。
の戸惑いに揺れる視線を受けて男はくつりと笑う。
「冗談だよ。口元見られた位でいちいち殺さない」
が命を差し出そうとした事が可笑しいと、男はしつこく肩を揺らして笑う。
しかし、
「必要なら、殺しても構いません」
そうが抑揚なく男に告げると男はピタリと笑いを止めた。
男の言動は常軌を逸しているようで、その実、相手の反応に即したものだ。
男が見せつける奇態はわざと作られている。それは男自身が自分の本質だと思い込んでしまうほどに精巧すぎて・・・。
は真っ直ぐに男を見つめる。
この男には心がある。
「・・・血・・」
男がポツリともらす。
「俺の血は汚かった?」
何の意図を持って男が問うのかわからない。
それでも、自分に迷いなく、自分を欺くことなく真っ直ぐに命のやり取りをするこの男の血がどうして穢れていることがあろうか。
「あなたの血は皆と同じ、人の血でした」
僅かに身動ぎしたが、男はその場に変わらず佇む。
男からは僅かなチャクラも気配も漏れ出す事がなく、真意はわからないままだ。
「・・・なら、俺にも効くのかな・・・・」
「え・・?」
男は立ち上がった。両手を持ち上げゆっくりと印を結ぶ。
「俺にも、歌って・・・」
地面からの突風に煽られ咄嗟には顔を腕で庇った。
「待って!!」
宙を舞う木の葉が視界を遮る。ザアッとあたり一面を吹き荒れる突風が収まり、ようやく目を開けるとは河原に一人取り残されていた。
あまりにも不似合いなか細い声。
男は一言、鎮魂の歌を歌って欲しいと言葉を残し消えてしまった。
足元から体温が奪われていくようだった。
あの男は死ぬ気なのだろうか。
首に手をかけられた時、心奪われた激情は死へ対してのものではなく、あの男へ対してのものだった。




作戦実行当日。日没を迎えたが空は赤々と照らされている。
小高い丘の上で地鳴りと共に何度も勢い良く立ち上がる火柱をカカシは見上げる。熱風に煽られ銀髪は四方へなぶられる。
「近づき過ぎだ」
カカシから一歩下がり、アスマは憮然として勢いの衰えない火勢を眺めている。
「掃討するってのは、こういう事なのか」
「文句ある?」
犬の面をぐいと押し上げて、カカシは眼下にのたうつ何匹もの火竜をじっと見つめ続ける。
火柱が上がった西の森は敵本陣が布陣していた場所で、追い詰められた敵が砦に篭城し始めた時カカシが前日に仕込んでおいた術を発動させた。
敵本陣は一瞬で消滅した。
「味方に犠牲は出なかった。予定より早く今日のノルマも達成できた。万々歳でしょ」
「忍の戦じゃあねえな」
「なに?今更。そんなのとっくに気付いてるでしょ?」
顔半面を焔に赤く染め、カカシはアスマを振り返った。
「この術は火影から預かってきた物だよ。あくまでも保険だったんだけど。・・・この打ち上げ花火は敵国主にも、木の葉の依頼主にも良く見えるだろうね」
「・・・・・」
「明日、仕上げは暗部がやるから」
カカシが面を元に戻す。そのすぐ後に二人の背後にはアスマの部下が経過報告に現れた。カカシは部下と入れ違いに丘を下り始める。
「おい!みっともねえ!止血くらいしやがれ!」
アスマの言葉にカカシは振り向かず、軽く片手を上げて姿を消した。

左腕の刺青の下、真横に裂傷が走っている。術を発動する際に身体の周りに結界を張ったが、発動する術自体がどの程度の威力か分からずに半瞬反応が遅れた。
火影からは何の説明も無かった。
ただ、出来れば使うな、と。それだけだった。
「・・くそじじい・・・」
実際に使ってみればそれは禁術に近い類の物で、しかも術者は仕掛けの中心に発動ぎりぎりまで留まる必要があった。戦の最中の敵本陣への侵入も脱出も、いくらカカシといえど至難の業だった。
腕からはかなり出血しており、血はまだ止まらない。傷口を洗って止血をしなければ。
適当な場所を探しながら川岸に沿って上流へと向かう。
ふと人の気配を感じカカシは草むらに身を潜めた。相手は全く気配を隠そうとしていない。
(民間人か?)
違う。あの白い上下の支給服は木の葉の医療忍者だ。栗色の柔らかな曲線を描く髪が月光を淡く反射している。
昨日の女だ。
それにしても纏っている雰囲気が昨日と全く違う。自分の言葉一つ一つに過剰に反応し、心の揺れを隠す事が出来ずにいた女。
だが今、川の浅瀬にじっとしている女からは何も伝わってこない。
カカシはわざと気配を消すことなく背後から女に近づく。
ばしゃばしゃと水音を立て女に近づいても、女は何の反応も示さない。女の背後に立ち、上から見下ろすと、女の足元にはいくつかの額当てとタグが落ちていた。
今日も人が死んで、その事に心を囚われているのだろうか。
「今日は歌わないの?」
カカシが話し掛けて初めて女から反応があった。
「歌は、お嫌いなのでしょう?」
硬く、温度が感じられない無機質な声。女はこちらを振り向きもしない。
返答はあるがまるで自分が存在しないかのように振舞われ、カカシは微かに苛立つ。
苛立つ。ふとカカシは自身へ対し違和感を覚えた。
人として欠陥がある自分の傍らに寄り添おうとする人間などいない。
だから自分も人との繋がりを求めなかった。
それなのに何故自分は今、この女の傍にいるのだろうか。
自分と踏み込んで関係を持とうとする者など殆ど無く、喜び、怒り、悲しみ、人としての感情などとうの昔に忘れてしまった。
そんな自分に女は感情の揺れをさらけ出した。それは自分に対する畏怖の表れであったけれど、手を伸ばせば女の心に触れる事が出来た。
女にしてみれば自分との接触は事故のような物だったのだろうが・・・・。
それでも・・・畏れでいい、怯えでいい、もう一度人の心に触れさせてくれないだろうか。
どうして今更、人の心にこうも飢え執着するのかカカシ自身にもわからない。
考える前に身体は勝手に動き、高く水音を上げカカシは女の正面にまわっていた。
歌わないのか、と重ねて問う。やっと自分に向けられた女の目は、自分を映すことは無くまるでガラス玉のようだった。
女は壊れてしまったのだろうか。あれほど人の死に動揺し、震えていたのに。
女は故人の遺品であろう無数の額当てを取り落としたまま空ろな目をカカシに向ける。
女はもう歌わないのだろうか。
戦地で直面する死を引きずる事の空しさに気付いてしまったのだろうか。
昨日、女はどんな思いで歌を歌ったのだろう。
「・・・血潮は現世の罪を洗い流すのだと。生まれ変わって新たな道を進むために・・・」
女は空ろな目を向けたままカカシに答えた。
「・・・・血・・」
なら、女の歌は自分には効かない。
自分の血はもう汚れきっている。この身体を切り裂けば過去に手にかけた者達の恨みつらみが溢れ出て全身は一気に真っ黒になるだろう。
自分には来世など無い。
カカシは未だ出血の止まらない腕を見る。穢れた血が腕を伝い清流を黒く染めていく。カカシは無感動に川の流れを眺めていた。
「・・っ、手当てを!」
突然に女の声に芯が通った。
カカシは瞠目する。何がきっかけだったのだろう。
女の目がしっかりとカカシを捉えた。
ただそれだけで高揚する気持ちをカカシは押さえる事が出来なかった。
喉を鳴らし笑いつづけるカカシに女は構わず、その手をぐいぐいと川岸まで引っ張っていく。
変な女だ。断り無く忍の体に触れるなど、例え味方同士であっても相手が悪ければそれだけで殺される事もある。それでも自分が恐ろしくないのかと聞けば、恐ろしいと答える。素顔を見たと脅して首に手をかければ、女は大人しく瞼を閉じた。
はたして昨日と同じ女なのだろうか。女が何を考えているのかわからない。
畏れ、怯え、蔑みなら向けられればわかる。大抵の人間は自分の存在を黙殺し、感情を向けることすらしない。
何を思う?どうして今日は瞳をそらさない?何故真っ直ぐに自分を見る?


「あなたの血は皆と同じ、人の血でした」


一瞬にしてカカシの周囲から全ての音が消えた。
心臓を強く掴まれたように息が詰まる。
女は曇りない眼で自分を見つめ続ける。
カカシは思い出した。
どうして今まで忘れていられたのだろう。
昔、女と同じように自分を見つめる者達がいた。
師がいて、友がいて、その時自分は人だった。
カカシは手の震えを全身全霊で押さえつける。奥底に封印していた想いが次々と奔流となって押し寄せてくる。
人の死に心を痛める慈悲深く美しい心を持った女が、自分も同じ人なのだと言ってくれた。
まだ、間に合うだろうか。
人の世界へ、自分は望めば戻れるだろうか。
それが叶わなければ最後の瞬間、この女の歌を聞きたい。
せめて来世では人としての生を。
しかし、あと一歩で掴めそうだった光は瞬く間に消えた。
女の左頬にはすっと一筋赤い線が、喉もとには先程締め付けた際の傷がうっすらと浮かび上がっている。昨晩と、今夜と、両方が自分の鉤爪で出来た傷だ。
近付けば傷付けてしまう。
カカシの胸の中央を鋭い痛みが走る。


カカシは樹上に飛び上がり、もと来た道を戻る。
あと一時間ほどで先発部隊が隣国へ出発する。カカシはその魁を務めて本丸へ斬り込む。
もし自分が途中で力尽きても後からアスマが来る。あの男なら任務の裏を読み、本当になすべき事を果たすだろう。

最後の言葉は女に届いたかわからない。
昨日あれほど酷い言葉を吐いておいて、何て都合のいい。
歌を望む資格など自分にはない。

あの女には、もう会わない。