さようならと、弾むような子供達の声に応えてふと顔を上げる。イルカはアカデミーの校庭で夕暮れ泥む空を仰ぎ見た。
いつの間にこんなにも日が長くなっていたのか。
「暖かくなったな・・・」
春を迎える喜びはその呟きには薄く、過ぎ行く季節を惜しむようにイルカはいつまでも沈んでいく夕日を眺めていた。
イルカが望んだ平穏な日々が帰ってきた。
受け持つクラスが増やされ、イルカは朝から日が暮れるまでをアカデミーで過ごす。少しもじっとしていない子供達の相手を一日中しているのは酷く体力が要ったが、その分一日の終わりには心地良い疲労感に包まれている。
残業はせず、残った仕事は早出で済ませるようにしていた。
「珍しいもんでもねえだろうに。そんなに見てると目が溶けちまうぞ」
「溶けたりしませんよ」
イルカが笑いながら首をめぐらせれば、咥え煙草のアスマの左右にぴたりと10班の子供達が寄り添っていた。振り返ったイルカは夕日を背負う形になるが、子供達には西日がまともに当たる。三者三様に目を眇めているのが微笑ましい。
「任務は終わったんですか?」
「ああ。これからこいつらと飯食いに行くんだが、お前もどうだ?」
「いえ、俺は。まだ片付けがありますから」
イルカは両手に持っていた演習道具をアスマに向けて軽く持ち上げた。
アスマもそうか、とだけ応えるとそれ以上誘う事はしない。
「お疲れ様でした」
イルカの言葉にアスマは軽く頷くと片手を上げたまま踵を返し、木の葉通りへと歩いていく。
イノとチョウジは声を揃えてイルカに挨拶をし、シカマルは猫背の姿勢を更に前に傾けたような会釈をしてからアスマを追いかけていった。
四人の姿が見えなくなった頃には辺りを照らすオレンジ色に宵の闇が大分混ざり込んでいた。







あれから身体が回復するまではアスマの好意に甘えた。
あの時は身も心も弱りきっていてとても一人ではいられなかった。
イルカの心が落ち着くまで、アスマは自分の想いを押し付けることもなくただイルカの傍にいてくれた。
あのキスを最後にアスマがイルカに触れることはなかった。
アスマの傍は暖かく、心が安らぐ。
アスマの隣にいれば身を切られるような痛みや、胸を締め付けられるような苦しみを感じることはないだろう。
けれども、それと同時に全身を瞬時に包み込む高揚感、胸が躍るような喜びを感じる事もない。
自分の心を自由に動かす事が出来たならどんなに生き易いだろうか。
結局はアスマの好意の上に胡座をかき、イルカは今までと変わらない付き合いを続けさせてもらっている。
アスマに同じ想いを返せない事が、本当に残念だとイルカは思う。

片付けを手早く済ませイルカは帰路につく。
アパートまでの道行き、土手沿いに植えられた桜の木には数日前から固く結ばれた蕾の先に来週には綻ぶだろう花弁が覗き始めた。
こんなにも季節の移ろいに目が向くのは、きっとイルカが移り行く季節に置き去りにされた気分でいるからだ。
あの日、混沌とした意識の中で男に組み敷かれながら抱いてしまった感情に向き合う事をイルカはまだ躊躇している。
イルカは閉塞された冬の季節からまだ動けずにいた。
そうしてその想いから逃げながらもイルカはその感情に囚われ、穏やかな生活の中で毎日チリチリと断続的に胸を焦がし続ける。
逃げるという事は、常にその感情を強く意識するのと同じ事だ。
だから、いつもの通りに自分の部屋の鍵を開けようとして、ほんの一瞬揺らいだ気配にイルカは弾かれたように背後を振り返った。
イルカは大きく目を見開き鋭くあたりを見回す。揺らいだ気配は瞬く間に消え失せてしまっている。それでもイルカは目を凝らし耳をすませて辺りを伺うと足場を測り、すぐ傍の街路樹の厚く覆われた常緑の葉の中に身を躍らせた。
至近距離で澄んだ碧眼と視線がかち合う。
その瞬間、イルカの全身の肌が粟立ち息が詰まった。
「・・・と、失敗・・・」
口布越しにか細い声が漏れる。
2ヶ月ぶりに会うカカシは満身創痍という体で、樫の木の逞しく張り出した枝の上にだらりと片足を宙に投げ出し腰掛けていた。
庇うようにカカシの腹部には左手が添えられており、その手の下はベストを突き抜けて赤黒い染みが滲んでいる。
しばし二人は枝の上で向かい合わせのまま声もなく見詰め合っていた。先に動いたのはイルカだった。
イルカがそっとカカシの左腕に触れた時、カカシの身体が軽く強張った。
「部屋の中に、入りましょう」
驚きに揺れてカカシの碧眼がイルカを見返す。
「相手が誰であっても怪我をしていれば、俺は同胞の手当てをします」
カカシは目を軽く瞠ってから、寂しげに小さく笑った。




床に直接座るよりは楽だろうと、イルカはカカシを寝室に通しベッドに腰掛けさせた。
カカシの血塗れたベストとアンダーを脱がせてイルカは手際よく裂けた脇腹に血止めを施していく。
「それほど傷は深くないですね」
「うん・・・。ちょっと血が流れ過ぎただけ」
カカシの足の間に跪いていたイルカが顔を上げると、カカシはイルカを真っ直ぐに見下ろしていた。
「終わりました」
イルカの言葉にカカシはまるで夢から覚めたような顔になる。
「ごめん。すぐ、帰るから」
「・・・失敗って、何のことですか」
カカシはベッドの上に右手をついて立ち上がろうとした姿勢のまま固まってしまった。
「失敗って、どういうことですか」
イルカの真っ直ぐな視線を受け止めきれずにカカシは目を伏せる。だが追求をかわせないと思ったのか、カカシはベッドの端に再び腰を降ろした。
「・・・今夜は、疲れてて。気配を消しきれなかったから」
「今夜、は・・・?」
カカシはハッとして口を噤む。重なる己の失言に困り果てたようにカカシの眉尻は下がっている。
イルカは俯くカカシをじっと見上げる。額宛も口布も外されて久しぶりにカカシの素顔がイルカの前に晒されている。
イルカはカカシの伏せられた瞼を縁取る銀色の長い睫を見つめていた。これまで何度もカカシと肌を合わせた。だが、これほどにじっくりとカカシの顔を見るのは初めてだ。そして向い合いゆっくりと話をするのも。
イルカがアスマの部屋を後にして自分の部屋からアカデミーに通うようになってから、帰宅の際部屋のドアを開ける瞬間たまに感じる事があった。
きっと感覚を研ぎ澄ませなければ中忍では拾う事が難しい僅かな空気の動き。イルカだからこそ気付く事が出来たのかもしれない。その微かな気配はイルカの動作全てに注意深く向けられていたのだから。
イルカが部屋に入る瞬間に安心したかのように、その人物が姿を消す直前のほんの僅かな気配の揺れ。
今日ほどはっきりと分からなければイルカも動く事が出来なかった。
「・・・気付いていました。たぶん、きっと、カカシさんだって」
「ごめん・・・。もう、来るなって言われたのに。でも、心配だった・・・」
言葉少なにカカシは語る。カカシはますます俯き、下から見上げているイルカにも表情が隠れてしまう。
「俺・・・ね、最初はほんとに、軽い気持ちだった。ただ、性欲処理の延長でイルカ先生を抱いてたんだよ。我ながらろくでもないと思うけど・・・。それから、自分から勝手に離れていったクセに、イルカ先生が自分の思い通りにならないとむしゃくしゃして。なんで前みたいに、イルカ先生は俺の言うこと聞いてくれないんだろうって。自分の事を棚に上げてイルカ先生に腹を立てたりもした。でもね」
赤裸々に自分の内面を吐露するカカシの声は悔恨に満ちていた。
「アスマから話を聞いて、さすがに俺もきつかった・・・。もちろん一番辛かったのは、イルカ先生だって分かっているけど・・・。あの時にやっと気付いた。俺は、イルカ先生が好きだよ」
飾り気のない、心からのカカシの告白だった。
イルカはカカシの言葉に静かに耳を傾けている。
「ごめん、だらだらくだらない話して。迷惑だって分かってる。俺が先生のために出来る事って言ったら、イルカ先生にはもう、一切近づかないことだけだね・・・」
カカシはようやく顔を上げると、イルカに向けて笑顔を作ろうとした。しかし口の端が震えてしまいそれは成功しなかった。
「俺はカカシさんの事を、本気で好きではなかったと思います・・・」
ようやく口を開いたイルカの言葉にカカシは痛みを堪えるようにきつく目を瞑る。
「あなたは、俺にとっては雲の上の人で、あなたと会うたびに俺は舞い上がって、緊張して。嫌われないように、不快な思いをさせないように、そんな事ばかり考えていました。俺はあなたの忍の才や、名声にばかり目を奪われて本当のあなたを見ようとしていなかったと思います。でも結局は、あなたに捨てられて・・・・。カカシさんがこんなにどうしようもなくて、小さな人間だとは思いもしませんでした」
カカシはイルカの前で苦しげに何度か胸を喘がせた。
「こんなにもあなたはどうしようもなくて、全く人を思いやる事が出来なくて。俺はあなたに幻滅しました。心の底からあなたを嫌いになる事が出来たと思いました。でも、俺はあの時比べてしまったんです。俺があの上忍に犯された時・・・」
「イルカ先生っ・・」
耐えかねてカカシがイルカを遮ろうとする。
「カカシさん、聞いてください」
しかしイルカはそれを許さない。
カカシはとうとう片手で顔を覆ってしまった。それでも、イルカの前から動かずに必死にイルカの言葉を受け止めようとしている。
「俺は、無理矢理犯されたのが苦痛だったんじゃない。俺の腕や足を掴む手が、俺を突き上げる身体があなたの物じゃなかった事が、苦痛だった」
カカシがゆっくりと顔を覆っていた手を下げる。その手の下のカカシの顔はイルカの言葉をまだ理解できずにどこかぼんやりとしていた。
「あなたを嫌いになれたらよかった。でも、本当は臆病な所のあるあなたや、少しずつ人を思いやれるようになって行くあなたを見るたびに、あなたの事を考える時間が俺の中でどんどん増えていって・・・。俺は今度こそ、本当に。カカシさん、あなたを好きになりました」
イルカは立ち上がるとベッドに腰掛けたままのカカシをそっと自分の胸に引き寄せた。
カカシの腕が恐る恐るイルカの身体に回される。その腕の力は段々と強くなっていく。
「イルカ先生・・・」
「はい」
「一生のお願い、聞いて」
カカシがイルカの胸に顔をつけたままくぐもった声で言う。
「俺を、許して」
「・・・それは、無理です」
イルカの腕の中でカカシが心細げに顔を上げる。
対してイルカは柔らかくカカシに微笑んだ。


「だって、とっくに許していますから」






カカシの上体がカクリカクリと揺れ始めた。
「イルカ先生、すごく眠い・・・」
「ああ、それ貧血ですよ。少し眠ればすっきりしますから」
睡魔と闘いながらもカカシは何とか目をこじ開けようとする。
「嫌だ、眠りたくない」
寝かしつけられる事に抵抗する子供のようにカカシは宙を藪睨みしているが、疲れきった身体が睡眠を欲しているのは明らかだった。
「ほら、添い寝してあげますから」
イルカは笑いを堪えながらカカシをベッドに横たわらせてシーツを被せてやる。
「俺が起きた時、隣にいて・・」
「ええ。隣にいます」
すっかり幼児返りしてしまったかのようなカカシに苦笑しつつ、イルカはカカシの隣に身を滑らせた。
半分意識を手放しかけながらもカカシはしっかりとイルカの身体を自分の腕の中に閉じ込める。
「大切にするから・・・・」
カカシがイルカの耳元でポツリと呟いた。
イルカはカカシの胸に額を擦りつけて目を閉じる。
「よろしくお願いします」
イルカの言葉が届いたのか。
眠りに付いたはずのカカシの柔らかな腕の拘束が更に強まる。

自分の感情を認めることを躊躇い、存在を遠ざけようとすらした。それなのにいざカカシを前にすればあっけないほどに想いの箍が外れ、感情が一心にカカシに向かうのを止められなかった。
今夜のような切欠が無くともいずれは自分の感情の堰は決壊していたのではないかと思う。
思いも寄らない強い感情の動きは、他人でも自分自身でもどうすることも出来ない。
人を好きになるという感情はなんて厄介で、そして愛しい物なのだろう。
たまには衝突しあいながらも、カカシとこの先ずっと並んで歩いて行けたらとイルカは願って止まない。
カカシも同じ思いでいる事はイルカを抱きすくめる腕の強さに現れている。
今夜からやっと、二人は始まる。














6    novel