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どれくらいそうしていただろうか。
は放心したまま石畳の上に座り込んでいた。
夜の帳は等しく降ろされているというのに、星があんなにも遠いのはどうしてだろう。
いつも降り注ぐようにに迫る星々は今夜は膜一枚隔てて霞んで見える。
星の光が霞むのはそれを邪魔する光源があるからだ。
整備された参道にぽつりぽつりと立てられている外灯。白色の蛍光灯がの視界の端でチカチカと点滅を繰り返している。
夜になっても去らぬ熱気はの身体に纏わりついてくる。
まるで夏に逆戻りしたかのようだ。
は一人だった。
頭では理解している。けれどもそれを認めることを心が拒んでいる。
ザリと、の手の甲に何かが押し付けられた。
ふと石畳についた手を見下ろせば一匹の白い猫がに身体を摺り寄せ手の甲をしきりに舐めている。
を慰めようとでもしているのかザリザリと執拗に猫はの手の甲を舐めあげる。だが、ざらついた猫の舌が押し当てられる痛みもほとんど感じられない。
見事に白一色のその猫の瞳は透けるような水色ではなく、もちろん眩い琥珀色でもなく、よく見かけられるような黒い半月を縦に描いていた。
にいつも寄り添っていた滑らかなビロードの手触りの温もりも、柔らかに孤を描きを見守ってくれたあの優しい瞳も、の傍から跡形も無く消えてなくなった。
この時代にはその二つとも存在しない。
「どうしたんですか?!」
の顔に強い光が当てられる。
突然の眩しさに顔を顰めていると下方にずらされた光の向こうに中年の男の顔が見えた。生成りの作業着のような服を上下に着込んで、懐中電灯を握りしめている男はここを管理する人間のようだった。
が自分の身体を見ると、服は元の物に戻っている。どこかにいったと思っていたバックは数歩離れた所に中身を散乱させて落ちている。だが足は裸足だった。そしてバックの中には携帯は入っていない。
携帯もパンプスも部屋の行李の中に仕舞って置いたのだから。
「大丈夫ですか?」
は何も言えずに男の顔を見返す。
男はの裸足の足やら散乱した持ち物やらを見てますます困惑しているようだ。ズボンのポケットから携帯を取り出すとどこかに電話をかけ始めた。
「・・・今日」
「・・はい・・?!」
が口を開いた事に男は大袈裟に驚く。
「今日は何年の何月何日ですか」
男は面食らって、しげしげとの顔を見た後に答えた。
「今日は2007年の8月29日ですよ」
たった三日。
が向こうにいってから本当に色々な事があった。だが、こちらではたったの三日しか時間は経っていなかった。
笑いがどうしようもなく込み上げてくる。同時に涙も込み上げてきての目尻から溢れ出した。後から後から溢れて涙が止まらない。
身体を引き攣らせて笑いながらは両手で顔を覆う。
「・・・な、何があったんですか・・」
「覚えていません」
その言葉はするりとの口から出た。
男の通報で駆けつけた警察官によってはすぐさま京都市内の警察署に連れて行かれた。
そこには両親が待っていた。
二人とも目の下の隈も色濃く、疲れを滲ませていた。両親から強い力で抱きしめられての心臓が跳ねた。
今日は仕事もあるだろうに父は休んで京都まで来たのか。父の腕は僅かに震えていた。母は涙で声を詰まらせながら何度も良かったとの耳元で呟く。
父と母に抱きしめられた事など幼い頃を思い返しても記憶に無かった。スキンシップというものがの家では親から子へ日常的に行われなかったからだ。が覚えているものといえば暖かい祖父の膝の上と年の割には皺の少ないその大きな掌だけで、両親の温もりは物心ついたときから思い出に無い。自分でも扱い辛い子供だったと思うし、両親が自分の接し方に戸惑うのも無理もないと長い間思い込んでいた。他の家と多少は違っていても両親なりに愛してくれているのだからそれで充分だと。
一線を引いて接していたのは両親ではなくの方だった。
父と母に思いがけない強い力で抱きしめられて、これほどに深く愛されていたことをはじめて知った。いや、自分は知ろうとしなかった。
がしっかりと両親と向き合っていれば、その深い、紛れも無い愛情をもっと早くに実感する事が出来た筈だ。
祖父にばかり懐くに父と母はどれだけ心を痛めていただろう。心を開こうとしないにそれでも父と母はずっと惜しみない愛情を注いでくれた。がそれに報いる事がなくても、長い間ずっとずっとを見守りつづけてくれた。
は両親をしっかりと抱きしめ返す。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
心の底からは謝った。
金銭を取られた訳でも暴行を受けた訳でもない。
ただ数日の間消息を断っていて、記憶障害があるのかその間のことは全く頭に残っていない。
事件性が低いという事もあっては簡単な質問にいくつか答えただけで帰宅を許可された。今夜は両親と共に市内で一泊してから東京に戻る手筈になっている。
こちらに戻ってみれば全てが夢のように思える。
が見聞きしたことは全て頭の中に残っているというのに、まるで映画か何かのように今までの出来事が遠く感じられるのだ。
「どうしたの?それ、好きだったでしょう?」
母親の言葉でハッと我に返った。
ホテルのレストランでの夕食の最中に、デザートを前にしてはぼんやりしてしまっていた。
心配そうに見守る両親の前では白いムースを一匙掬って口に入れた。口内に広がる濃厚なホワイトチョコレートの強い甘味が顎の付け根を痛ませた。はその痛みを何度も噛み締めるように一口、また一口とムースを口の中に入れる。
こうしてもとの生活に馴染んでいくのだろうか。
言われた通りに、何事も無かったように慣れていくのか。
顎の痛みの付け根も消えて、その内にあの京で経験した事は夢か現か区別もつかなくなって・・・・。
その夜は柔らかすぎるベッドの上で一睡もする事が出来ず明け方まで寝返りを繰り返していた。
翌日は快晴だった。
一昨日は纏わり付くような熱気を孕んでいた空気は今日は驚くほどにカラリとしている。季節は一足飛びに秋に近付いているようだった。
は両親と共に駅のホームで東京行きの新幹線の到着を待っている。
衣類などの入ったの旅行バックはコインロッカーの預かり期限が切れたあと拾得物扱いにされていた所を両親が取り戻していてくれた。が片手に下げていた旅行バックをさりげなく父が自分の手に引き取る。父はこんな事をしてくれる人だったのかと、ほとんど触れた事がなかった父の優しさに驚きながらもは小さく礼を言った。母は自分達をみて嬉しそうに笑みを浮かべている。
父はに笑いかける事はしなかったが軽くと目を合わせると小さく頷き、ホームに入ってきた新幹線に目線を戻した。
こんな風に穏やかな生活に戻れて良かったのだ。家族を悲しませずに済んだのだから。
東京に戻る事を受け入れて父と母の後に続きも新幹線に乗り込もうとした。
乗車口のステップに足をかけた時、一陣の風がに吹き付けた。
その瞬間にまるで電撃にでも打たれたかのようにの身体はビクリと震えた。
風は吹き抜ける前にの頬を撫でて肩に下ろされた亜麻色の髪を優しく上空へと巻き上げた。
その風はの目に瞬時になり代わった。
風は上空に高く上ったあと、一気に下降して京の町を吹き抜けていく。
今がいる街ではない。が二月過ごしたあの京だ。
風は活気溢れる町並みを抜け再び天高く舞い上がる。眼下に碁盤の目のように整然と整えられた都が見えた。風はぐんぐんと上昇を続け再び半円を描いて地上へと吹き付ける。緑濃い山を滑るように下り、突如開けた草原を吹き抜ける。
草原は小高い丘になっており、草原が途切れたその下には先ほど見下ろした京の都が広がっている。見上げれば突き抜けるような青空を遮るものは何も無い。
美しく胸のすくようなその景色を草原に立ち見晴らす人がいる。均整のとれた身体を少し反らせ天を仰いだあと、その人はこちらを振り返り手を差し伸べた。
複雑な光彩を放つ翡翠の瞳が、自分に向けられ弓なりに撓んだ。
「、どうしたの?」
母が怪訝そうな声を出す。
はステップに足をかけたまま次の一歩を踏み出せない。
発車を告げるアナウンスが鳴る。
「、何をしている?早く乗りなさい!」
「!」
父と母が乗車を促す。父の手がに向けて伸ばされた。
「ごめんなさい・・・」
昨夜からいったい何度謝っただろう。
は足をステップからホームへと戻す。の身体は完全に新幹線から外へと出た。
「!ふざけるのはよしなさい!」
父が怒ったように怒鳴る。
「本当に、ごめんなさい・・・」
がそう言ったあと、と両親の間を新幹線の乗車口のドアが遮った。ドアの窓口の向こうから父は唖然として、母は少し青ざめてを見つめていた。
心の底からは謝った。今までの事を、そしてこれからの事を。
無償の愛情をくれた両親を悲しませても、自分の生涯をかけてやりたい事が出来たのだ。
だがの胸は張り裂けるように痛み、涙は頬を濡らし続ける。
電車からバスへ乗り換えては下鴨神社へと向かった。その間も家族や友人の事を想うと涙は止まらなかったが人目を気にする余裕もなかった。
は脇目もふらずに参道から少し外れた小道へと突き進む。新しく買った靴は少しヒールの高いサンダルで、時々木の根などに足を取られながらもは目的の最奥を目指した。
「・・・あった」
長い年月を風雨に晒されながらも堪えつづけたあの社は変わらぬ佇まいでそこにあった。数分歩けば観光客でごった返す参道に行き着くというのに、この場所は空間が切り取られたかのように前と同じように静寂を保っていた。
観音扉になっている格子戸を覗くと鮮やかな朱色の五芒星が見える。
五芒星をしばらく見つめつづけてからは面を上げた。
何も起こらない。
駅のホームで確かに感じたのだ。
触れれば切れてしまうほどの頼りないものではあったが、確かにあの時代へと続くか細い糸はまだ途切れていない。
けれども衝動に任せてはここまで来てしまったが具体的にはどうすればいいのか分からない。
父と母を振り切ってまで自分は何をしているのか。自分な悲壮なまでの決意が滑稽な物に思えてきて、笑いたいのにまたどうしようもなく泣けてきた。
途方に暮れて泣くを慰めるように野鳥達が社の周りに集まってくる。
何を言いたいのか野鳥達は懸命に鳴き声をあげる。
涙で歪む視界で小さな鳥達を見ていたの頬を撫でるように暖かな風が吹いた。
「・・・ユキ・・!」
は弾かれたように立ち上がった。野鳥達は驚いて一度空に舞い上がった後、再び小さな社の屋根の上に落ち着いた。
この風を感じたから、望みをかけてはここまでやってきたのだ。
「お願い・・、助けて。どうしたらいいのかわからないのっ・・」
肩を震わせて再び泣き始めるの周りで再び小鳥達がピイピイと騒ぎ出す。
緩やかに辺りを吹き抜けていた風が少しずつ強さを増していく。風はの髪を優しく巻き上げ、頬を撫で、背中を撫で、の全てを愛しむように触れていく。
この風をは物心ついたときから知っていた。
頬を撫でる風も、髪を柔らかく掻き回す風もユキだったのだ。ユキはずっとの傍に居てくれたのだ。
『あまりこれを困らせてくれるな・・』
その声は直接の頭の中に響いてきた。
ぴたりと小鳥たちのさえずりが止まる。
茂る木々の葉が日の光を遮っている為に社の周りは薄暗かったのだが、いつの間にか現れた光が煌々と社の真上で輝いている。
その光の中心でを見下ろしていたのは黄金色の澄んだ瞳。
『お前に行くな行くなと、小さき者たちが騒ぎ立てている』
「・・・ユキ」
見事な体躯の白虎は宙に浮遊したまま静かにに語りかける。
『その名を呼ばれるのは久しぶりだ。もっともお前以外にそう呼ぶ者は居なかったのだが・・・』
その大きな双眸が僅かに細められた気がした。
目の前のユキはが知っているユキとは少し雰囲気が違っていた。が知っているユキが瑞々しい若木だとすれば、目の前のユキには姿形こその記憶にある白虎に違いないが、千年杉のような静けさと共に圧倒されるような大きさがあった。
『我はお前をずっと見てきたよ。今の生を生きるお前を。今のお前の前の生を生きたお前を。更にその前の生を生きたお前を・・・。お前の優しい魂がいよいよ最後の一欠片となった主の神魄を包み込んでくれた時から、永い時を我はお前と主と共にあったよ・・・』
にわかには信じられないような話をユキはする。自分の中に何かがいるのだと。
けれどそれはきっとユキが言うのだから本当の事なのだ。の前世がいつ始まったのかは知らない。そしてユキは気の遠くなるような年月を生まれ変わるの傍で過ごしてきた。
『主の意に背く事となるが・・・・、一つだけお前の願いを叶えよう。何を望む・・?』
問われた望みを口にするとき、緊張のあまりの呼吸が浅くなった。
本当の自分の願いにやっと気付いた。言葉は同じだが、望む内容は全く正反対のもの。
「帰りたいの・・・!」
帰りたい。帰りたくてたまらない。
雄大な自然が取り囲む京の町。あの人が暮らす都へと。
もといた場所に戻ったというのに、はずっと抜け殻のようだった。
身体は戻ってきたが、心はあの人のもとに置いてきてしまった。
『本当に、それで良いのか』
後悔など、死ぬまでするに決まっている。二度と会えないかも知れない。いやきっと会えない。
父と母と、に近しい人々に対する想いがまたも身を切られるように湧き上がってくる。
だが別の次元でどうしても堪えられないのだ。
景時と交わる事の無い一生をこの先歩む事が。景時と離れるという事が何を犠牲にしてでも堪えられない。
「それで、いい」
溢れる涙を拭いもせず、は毅然とユキを見返した。
『・・・我もお前に頼みがある。もう一度理を曲げれば我の力もこれで尽きる。我は長くこの世に止まり過ぎた・・・。我は主とともにこの世の全てと交わり、万象を構成する一部となろう。だから、主を我に返しておくれ・・・』
「かえす、って・・・」
何をすればよいのか分からず戸惑うの傍らにユキは軽やかに降り立った。
四足で立ったままの見事な体躯の白虎の目線はよりもやや下方にある。ユキがそこだけは変わらない桃色の鼻先をトンとの胸の中心に押し当てた。じり、と触れられた箇所から熱が伝導する。
「・・あ、熱い・・・」
はたまらずに胸元を押さえる。
手足の先から突如湧き上がった熱が胸の中心へと物凄い勢いで集まっていく。
「・・・っ!」
焼けるような熱さが胸元を突き破ったような感覚。
の胸から握り拳ほどの光が飛び出した。その光は瞬く間に茂る木々を突き破り、大空へ飛び上がったと同時に幾つもの欠片に砕け四方へ飛び散った。その光は行く先を見届ける前に消えてなくなってしまった。
ユキはそれを見届けてからと向き合った。
『・・・心の望むままにお生き。我が主の愛し子・・・』
白い光に包まれる間際、はユキの首に抱きついた。
体温は感じられなかった。
けれど頬を滑るビロードの、心地良い毛並の感触をはいつまでも忘れる事は無かった。
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