もうよほどの事がなければ驚いたりしない事に決めた。
だから鮮やかなピンク色の髪くらいでは驚かない。
「大丈夫!必ず一緒にもとの世界に戻ろうね!」
澄んだ緑の目をキラキラさせて望美と名乗る美少女は力強くの手を取った。目まぐるしく表情が変わるたびに桃色の髪もさらさらと揺れる。
室内にはユキが上がりこんでしまっていたが、この立派な屋敷の持ち主である景時は何も文句を言わないでくれている。ぴたりとに寄り添うユキの体温が心強かった。
ユキの他にの顔見知りと言えばこの場では、いやこの世界では景時しかいない。
目が覚めると自分の布団を見知らぬ人々が取り囲んでいてはひどく驚いた。
状況がまだ読めない。
泣きすぎて頭の中も霞みがかったようなままだ。
「今私たちはね、京の怪異を静めようと色々情報を集めている所なんだよ。怪異がある所には必ず穢れがあるから。穢れの元を全て断ち切れば白龍の力も戻って私たちも元の世界に帰れるんだよ」
「・・・そうなの」
何のことやら。
意味は全く分からないけれど、望美がを元気付けようとしてくれているのだけは分かる。
室内に居る他のギャラリー達は何も言わないので、きっとそれは本当の事なのだろう。
今すぐではないにしろ、いつかは元の世界に戻れるらしい。
「良かった・・・」
ぽつりと、は呟いた。
砕かれたと思った希望はまだ消えずに残っていた。
ちゃん・・・ごめんね。俺が不安にさせちゃったんだよね」
望美の脇に静かに座っていた景時がそっとに携帯を手渡す。
「あ・・」
の手の中にするりと慣れ親しんだ硬質の塊が収まる。
どうして景時が持っていたのか。
だいたい、この屋敷にどうやって辿り着いたのか覚えていない。不安と恐怖に押し潰されて訳が分からなくなってしまった。
自分の足で歩いた覚えは無い。
「あっ・・・!」
記憶の断片が蘇るとそれが切欠となり、の頭の中で忘れていた事が次から次へと溢れ出した。
広くてがっしりとした逞しい肩と、力強い腕。
包み込まれるような暖かな体温。ふわりと花の御香のような良い香りがした。
ちゃん、どうかした?」
景時がを心配そうに見つめている。
景時と目線がかち合ったときの顔は一気に火照った。
「・・っ・・!」
景時に抱き抱えられてここまで運んでもらったのだ。自分はみっともなく泣きながら景時に思い切りしがみ付いたのではなかったか。
は堪らずに両手で顔を覆う。
するとの布団を取り囲んでいたギャラリー達がどうしたのかと騒ぎ始め、はますます居た堪れなくなる。
「ほらほら!さんはまだ疲れているのよ!お話はまた明日!」
その時、景時の妹の朔が小気味よく手を叩きながら絶妙なタイミングでその場の全員に部屋を出るよう促してくれた。
まだ全員の顔と名前が一致していない。だが部屋にいたそれぞれがに労いの言葉をかけながら部屋を出ていく。
ちゃん。ゆっくり休んでね・・・・」
景時の声には顔を覆ったままで頷く。
人の気配がなくなり、ユキの体温だけが変わらずにに寄り添っていた。
そして朔も変わらずにの傍らに控えていた。
はゆっくりと顔から両手を外す。
「・・・兄上と、何かあった?」
顔の火照りがようやく引き始めたと思ったのに、今度はの全身の体温が上がったようになる。
そんなを見て朔はからかうでもなく柔らかく微笑んだ。
「ごめんなさいね。兄上は鈍いから、何も分かっていないと思うわ」
「あの、別に。何もないですから。私が、ただ景時さんに迷惑をかけた、だけで・・・」
「そんな風に思わないで」
しどろもどろに答えるを朔が遮る。
「調子の良いことばかり言う兄だけど、ああ見えて人を見る目は確かなのよ。兄上のお客様だもの、歓迎するわ」
しっとりと落ち着いた雰囲気を醸している朔がとても年下には思えなかった。
「ありがとう・・・・」
得体の知れない人間であるはずのを、何も聞かずに朔も景時もこの屋敷に迎え入れてくれた。
朔はを見つめながらとても嬉しそうに笑っている。
ただそれだけの事がじわりとの胸を熱くさせた。
は再び潤み始めた目元を隠すようにユキの首筋に顔を押し付けたまましばらくじっとしていた。



この世界でのの生活は東京の生活と比べて一変した。
まず時間の流れ方が違う。
日の光を生活の軸にして朝日が昇れば起き出し、日が沈めばそう遅くならない内に町も人も寝静まる。
はこの屋敷では客人として扱われていて、一日の内に何かしなければならない仕事も特にない。
一度家事の手伝いを朔や譲に申し出てみたのだが、二人の完璧な仕事振りには手を貸す隙もなかった。
この屋敷には初日に会った者達の他にも寝起きしている景時の仲間達がいて、慌しく屋敷を出入りする合間を縫って入れ替わり立ち代りに挨拶をしてくれた。だが日中は梶原邸はに付き添う人間一人二人を残して誰も居なくなるのが常だった。
景時も仕事が忙しいらしく、ここ最近は顔すら見てもいない。
「景時さんは、どんな仕事をしているの?」
色々と身の回りの世話をしてもらう内に一番親しくなった朔には一度聞いてみたのだが、
「源氏の軍奉行よ。何とか務めているようだけど」
そうさらりと朔に返されての口はぽかりと開いた。
「・・・・じゃあ、みんなは平家と戦ってるの?」
「そうよ」
改めて、とんでもない所に来てしまったと思う。
過去に遡ってしまったのか。異世界に紛れ込んでしまったのかは分からないけれど。
「大丈夫。のことは必ず守ってあげる。絶対に、危ない目には合わせないわ」
凛として微笑む朔はよりも年下だとはとても思えない。
望美や譲だって日々もとの世界に帰るために奔走していると聞く。
「何か、何か私にも出来る事はない?」
朔だって本当は忙しいはずなのに、その貴重な時間を割いてこうして自分の傍にいてくれるのだ。
だから一方的に世話になるだけでは心苦しい。何の役にも立たない自分をこの屋敷の人々が気にかけてくれればくれるほどは申し訳ない気持ちで一杯になる。
「あら、そう?じゃあ早速」
に朔は小さな竹篭を手渡した。
「屋敷の裏山に栗の木があるの。その籠に拾ってきてくれる?あの辺にはアケビもあるのよ」
「・・・朔・・」
その竹篭はの掌より少し大きいくらい。
小さな子供だってほんの数分で籠に山盛りの栗を拾う事ができるだろう。
「全くもう、は。あれこれ変な事を考えて勝手に気疲れしているのでしょう?」
朔は何でもお見通しだ。
けれども、自分の身の回りの事すら人任せで、はこの屋敷の中で自身の存在意義を見出せないでいる。
日々暮らす中で役割を全く求められないのは結構つらい。
「朔、私も何かみんなの役に立ちたいの。何が出来るかなんて分からないけど・・・」
「そうねえ・・・・。それならにはいつも笑っていて欲しいわ」
またいいようにあしらわれたのかとは思ったが、朔の顔にはからかいの色は無かった。
「・・・それだけ?」
「そう、それだけ」
その時どしり、との腰に柔らかい質量がぶつかってきた。
「ユキ」
見下ろせばユキがぐりぐりと頭部をの足に擦りつけている。
「ちょうど白虎も帰ってきたし、一緒に裏山へ散歩にいっていらっしゃい。気持ちも晴れるわ」
やはり栗拾いは仕事でも何でもないじゃないか。
はガクリと肩を落としたまま、朔に追い立てられるようにユキを伴い裏山散策へと出かけた。




ユキの事を屋敷の皆は白虎と呼ぶ。
が知る虎といえば体長は2メートルを悠に越す大きな獣だ。
足元を見下ろせばの太腿の辺りで顔を上下させユキはゆったりと足を運んでいる。大きさは大体ゴールデンレトリバーくらいだ。いや、もう一回りくらい大きいか。
どうみても見た目が猫の形をしているので、なんだか豹やチーターを前にしたような本能的恐怖を最初は感じたが、もしこのくらいの大きさの犬に出会ったとしたらは普通に可愛がるだろう。
「まだ子供なのかなぁ・・・?」
子虎なのだろうか、となりに考えてみる。の独り言をじっと聞き入るようにユキはを淡い水色の瞳で見上げている。
ユキは全く鳴かない。最初に出会った時の一声はなんだったのかというほどに。
大抵はにぴたりとくっ付き、ユキは機嫌良さそうにぐるぐると喉を鳴らしている。
「もっと大きくなるのかな」
そうしたらテレビで見たような立派な縞模様のあるホワイトタイガーになるのだろうか。そんなに大きな身体になったら景時や朔に迷惑がかかるかもしれない。食費だって物凄くかかりそうだ。
もっともはユキが食事をする所をみた事は無い。時々ふらりと居なくなるのでその時に自分で餌でも取っているのかもしれない。
動物全般が大好きなはユキが何を捕食しているのかは深く考えないようにする。
山道を屋敷の背後を回るように上ると開けた小高い丘を野原が覆っていた。その丘からは梶原邸とその先の整然と整った京の都を見晴らす事が出来た。
「本当に、綺麗な所だね・・・・」
の眼下には紅葉し始めた木々に紛れて民家や寺院が見える。がこの世界に来たのは確か夏の終わりだった。がいた世界よりもここは季節の移ろいが鮮やかだ。
この世界はお互いに溶け合うようにして人も動物も自然と共存している。もう少し遠くへ視線を移せば少し緑は少なくなり整然と整った町並みが姿を見せる。今が源平合戦の最中でここが京の都なら、あの町は平安京という事になるのだろうか。少し目線を上げれば青空は遮る物も無くとても高い。
自分の住む世界と突然に切り離されてしまった心細さは常にに纏わりついているが、日々の暮らしのなかで小さな楽しみを見出す心の余裕もは少しずつ持ち始めている。
息を深く吸い込むと清浄な空気に満たされての胸が一杯になる。
この世界の人の手がほとんど加えられていない豊かな自然を感じる度には何故だか体が震えるような感動を覚える。自分はこんなにも感受性が豊かだったかと不思議にも思うのだが。東京にいた頃は観光地を巡って山や川など、普段と違う眺めに人並みに感心する程度だったのに。
ここで暮らしていると日に日に五感が研ぎ澄まされるような、そんな感覚を覚える。
濃い空気の匂いを感じる。風がそよぐ音がはっきりと聞こえる。移り変わる景色の色がまざまざと見える。
深く息を吐き出しながらはまだ青く柔らかさを保っている一面の草原の上に仰向けになった。
ユキも手足を折り曲げるとに大きな身体を寄せてのんびりと腹ばいになる。
まだ昼を少し回ったばかり。
今日は風もほとんど無い。暖かい日の光を浴びながらはぼんやりと薄く伸びた雲を眺めていたので突然にかけられた声に酷く驚いた。
ちゃん」
あられもなく手足を投げ出して仰向けになっていたが慌てて起き上がると景時が数歩離れた場所に佇んでいた。
景時は所在無さげにほりほりと人さし指で頬を掻いている。
「ごめん、驚かせて。朔からちゃんがここに居るって聞いてね。何度か声をかけたんだけど・・・。隣、いいかな」
「あ、は、はい・・・」
随分と気を抜いた格好を見られたは赤面しながらも場所を空けるように草の上で身体をもぞもぞと動かした。
から一歩ほどの距離を開けて景時も柔らかい草の上に腰を降ろす。
「元気だった?」
「はい」
「何か困った事とか、不便な事は無い?」
「はい、大丈夫です」
「そっか」
一息に質問をすると景時はに向けて柔らかく微笑んだ。
「最近忙しくってね。家に帰ったのなんて四日ぶりだよ。ずっとちゃんがどうしてるか気になってたんだけどね」
景時は寛いだ様子でごろりとの横で仰向けになった。
最初に会ったとき以来、多忙な景時とはいつも擦れ違い様に二言三言言葉を交わすだけで、じっくりと腰を落ち着けて話す機会など無かったのでは会話の糸口を掴めずに緊張のため身を硬くしたままでいる。
「でも元気なら、良かった・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
会話が途切れた。
無言のまま景色を眺め続けるのも居心地が悪く、はチラリと景時を見やる。
景時は両手を頭の下に組み、仰向けのまま固く瞼を閉じている。
そしてすうすうと、景時は規則正しい寝息を立てていたのだ。
会話の途中で寝入ってしまった景時に唖然としながらも、は景時の寝顔に見入った。
柔らかい物腰とふざけた言動のためか今まであまり意識が向かなかったが、景時の顔立ちは精悍でとても整っている。切れ長の瞳は今は閉じられているがその目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。
(疲れてるんだ・・・)
軍奉行なのだと朔はいっていた。それならば源氏の軍を束ねる者としての景時の責任はが想像もつかないほどに大きいのではないか。
「ゆっくり、休んでください」
は小さく景時に声をかける。
心地良い風がと景時を労わるようにふわりと身体を撫でて流れていった。


穏やかで静かな時間の中でがふと気がつくと、程近い草叢から顔を覗かせた岩の上に雀が2羽、小首をかしげかしげ黒く丸い目をへと向けていた。今までの忙しない生活の中で雀をこんなにまじまじと見たことは久しくない。
いや、子供の頃以来ないと言った方が正確だった。
しくりと微かに胸を痛めながらもは小さな子供の頃の自分を思い出していた。