自分の荷物など何もない。なんせこの身一つでこちらに来たのだから。
旅の準備をと思っても勝手が分からず部屋の真ん中でぼんやりしていると、心得たようにあれやこれやと朔が世話を焼いてくれる。
「はい、これでいいわ」
の着物の飾り帯を朔がポンと軽く叩く。
打掛の裾を上げて、朔はが歩きやすい丈に調節してくれた。
「あとは、下駄よりは草履の方が歩きやすいわよ。明日用意してあげるわね」
「ありがとう」
ふ、と朔は景時とそっくりな切れ長の目を弓なりにする。
「不謹慎だけど、あなたとこれからも一緒にいられると思うと嬉しいの」
朔の言葉にくすぐったさを覚えつつもは朔と笑いあった。
景時と景時が率いる軍は明後日には陸路で志度浦という場所を目指し出発するのだそうだ。
九郎と弁慶が率いるもう一つの軍は一足先に明日には出発する。
昨日から景時の邸には鎧に身を包んだ武士達が慌しげに出入りしている。しかし忙しそうな周囲とは対照的に邸の主人はのんびりとしたものだった。
ちゃん、美味しい柿があるよ。一緒に食べよう」
景時がの部屋へやってきた。
艶々とした濃いオレンジ色の柿を着物の袖から一つ二つと取りだして景時は子供のように笑った。
「兄上!出立の準備は済んだの?」
「んー、どうせ俺が準備するよりも周りに任せた方が早いよ」
「それは・・・、そうかも知れないわねえ」
珍しく景時の意見を肯定した朔は大人しく景時から柿を一つ受け取る。
何だかんだいっても仲の良い二人のやり取りを見ていると自然との口元も綻んでしまう。
景時から受け取った柿は小ぶりだったが、歯をあてればカリカリとした果肉から自然な甘味が口の中に広がる。
三人で柿を齧りながら寛いでいるとあまりにもこの時間が平和すぎて嘘のようだが、景時はあと数日後には戦いの最中に身を投じるのだ。
「出発は明後日だからまだ少し時間があるね。ちゃん、ちょっと出かけようか」
「いいんですか?」
真っ先に反対されると思ったのだが、朔はへ笑顔のまま頷いてみせる。
この邸の庭ではこちらに来て二度目の恐怖を味わった。
この世界はがいた場所にはなかった恐怖と隣り合わせにあるのだ。
すっかり穏やかな生活に慣れてはその心臓が凍るような恐怖を忘れていた。あの鎧武者達が突如現れたのだ。
取り乱す事なく武者達に武器を構える朔を見て、ここは自分が暮らしてきた場所とは全く異なる場なのだと改めて痛感した。
呼吸も覚束なくなるほどの、あの山中で味わった恐怖に再び対面しては身体を強張らせて立ち竦んだ。
そして朔の身体の上に武者の刃が今にも落ちるという瞬間、頭が真っ白になった。
それから先の事が良く思い出せない。
景時と朔に抱き抱えられるようにして部屋に連れていってもらった事はぼんやりと覚えている。
結界を張り直すと景時が言っていた。具体的に何をしたのかは知らないけれど。
しばらくは庭先へも出るのも控えるようにと、これは朔から言われた。
邸の裏にある丘から景色を眺める事ができなくなって、顔には出さないようにしていたがは少しばかり元気を無くしていたのだ。
ただ、格子窓をすり抜けて小鳥達が遊びにきてくれた事はかなりの慰めになった。最近では声をかけなくても視線を送れば肩や手の上に小鳥達は挨拶をしに来てくれる。どうもこちらに来てから余計に動物達が寄ってくるように思う。
「京をきちんと案内してあげた事がなかったよね。次はいつ戻れるかわからないから」
「そう、ですね・・・」
こちらに来た時は、まだ暑気が去らない夏の終わりだった。
今は日中こそ過ごしやすいが朝夕はシンと冷える秋の只中にいる。二月ほども過ごしたこの邸に、これから先戻れる保証はないのだ。
望美達はもといた場所に帰れると少しも疑っていない。あれほど迷いも無く言い切られると、も何となくそんなものなのかと思うのだがその帰るタイミングがいつやってくるのかが良く分からない。
漠然と、景時達の戦が終わってからとは考えている。
、悪いけど兄上のお守りをお願いするわ。こんな大きな図体でウロウロされては片付くものも片付かないったら」
その大きな図体の景時は大袈裟に肩を竦めて溜め息をつく。
「ね?俺の居場所が無くってさ〜。ちょっとその辺まで散歩に付き合ってくれる?」
「はい」
そうまで言われてはは頷くしかない。
軍の要職についている景時が忙しくない訳が無いのだ。けれど邸の庭で襲われて以来、特に景時はと共に居る時間を作ってくれようとする。
相手の立場を慮って少しは遠慮しなければと思うのだが、が気遣いしないように先回りしてくれる景時の優しさが嬉しくてついつい甘えてしまう。
「じゃ、行こうか」
差し出された景時の手にはごく自然に自分の手を重ねた。




市中を賑わす怪異の噂に怯えながらも人々は強かで逞しい。都の大きな通りは露店が立ち並び賑わいを見せている。
実用品以外にも装飾品や子供の玩具やら眺めるだけでも楽しめる色々なものが所狭しと軒先に並べられている。
ふと素焼きの小さな置物の一つにの目が止まった。
「ふふ」
思わず声が漏れた。猫だか犬だか判別はつかないが、無地の身体にピンと立った両耳、つり目がユキを思わせた。
「気に入った?」
斜め上から景時がの手元を覗き込んでくる。
「ユキに、似てるなあと思って」
ユキは今朝からふらりと出かけてしまった。傍にいればべったりと離れないのに、ふと気付けばそっけなく姿を消してしまっている。
その素焼きのツンと澄ました顔は本当にユキにそっくりだった。
「これ一つくれる?」
が断わろうとする前に景時は店主に代金を支払い、店主もあっという間に代金を手元の小箱の中に仕舞いこんでしまった。
慌てて棚に品物を戻そうとするを景時が制する。
「これくらい贈らせてよ。あと、これもちゃんに」
シャラリとの耳元で煌びやかな音がした。
少し首を傾げて音の正体を確かめようとすると、視界の端に白く輝く小さな花が連なって見えた。
「白銀の細工物は珍しいから。うん、似合うね」
景時の指は器用に動き、の髪を一房片耳に掛けるとそれを纏めるように白銀細工の簪を差す。
気負わずに異性の髪に触れてくる景時には驚いた。それと同時にトクトクと心臓が常より早く動き始める。
言葉を継げずに景時を見上げるだけのに景時は翡翠色の瞳を弓なりに撓ませる。
「あ、ありがとうございます・・・」
景時にとっては何でもないことなのだろう。
どちらかというと恋に奥手なより年上である景時の恋愛の経験値はかなりの開きがあると想像できる。
しかし、頭でそう言い聞かせても突然に景時が知らない人のように思えてきて落ち着かない。
こんな時に限ってあの裏山で見た景時の真剣な表情やら、初めて会った時に自失した自分を抱き抱えてくれた景時の逞しい腕やら思い出してしまい、の頬はますます熱を持つ。
意味も無く握ったり開いたりするの手の中でユキの形をした素焼きの鳴り物がカラコロと可愛らしい音を立てた。
ちゃんが喜んでくれたら俺も嬉しいよ」
の内面の煩悶を知らずに景時はにっこりと全開の笑顔をに向けてくる。
景時の顔を見るのが気恥ずかしくてかなり足早に歩くに長身の景時は憎らしくも易々とついて来た。

「まだ日も高いからもう少し時間があるけど、何処か見てみたい場所はある?」
市場を一通り冷やかしてから、梶原邸にと景時は歩を進めていた。
何処かと問われても、何処に何があるのかが分からない。
少し考えては一つ思いついた。
「お参りに行きたいです」
「何か願でもかけるの?」
「戦でみんなが怪我とかしないように、って」
それを聞いた景時はなんともいえない妙な顔をした。怒っているわけでもない。困っているわけでもない。けれども喜んでいるわけでもない、といった顔を。
「・・・いけませんでしたか?」
「いけなくは無いけどね」
我知らず素焼きの鳴り物を両手で握りしめる。何か景時が不快に思うような事を言ってしまったのかもしれない。
「・・・・ちゃん、割れちゃうよ」
景時がやんわりとの指を解く。思ったよりも力が篭っていたらしく、の両手は指先から掌まで血色が無く真っ白になっていた。
「あの、ね。怖がらなくていいよ」
の両手を更に大きな両の手で包み込んで、景時がひたとを見つめてくる。
「俺は何があったって、ちゃんを怒ったり嫌ったりなんかしないよ」
はただただ驚いて、微動だに出来ず、自分の手を包み込む景時の暖かい体温を感じていた。
が小さな子供だった頃、そっくり同じ事を祖父がに言ってくれた。
どうして景時はいつもが欲しいと思う言葉を一語一句違わずにくれるのだろう。
「だから、俺にだったら気を使わずに思った通りに振舞って良いんだよ」
掌と同じように景時の瞳も温かい。水を湛えた湖のようにその色は深く穏やかだった。
「皆の為にじゃなくて、ちゃんが自分の為にしたい事は無いのかな、って俺は思ったんだよ。不安にさせたなら、ごめんね」
そっと、景時の手がの両手から離れていく。去っていく暖かさを惜しいと思った。
「お参りに行くかい?」
がコクリと頷くと、仕様の無いとでも言いたげに眉尻を下げたまま景時は笑った。