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自分の為にしたい事。
今まで生きてきて改めて考えた事などはなかった。
進学などこれまでの短い人生の中で行く先を選択する場面は幾度かあったが、それはが望んだというよりも世の中の流れに従ったというほうが正しい。何もやりたい事を見つけられずにいたから進学の道を選んだのだ。
進学の道を選んだからきちんと卒業できるように単位を取る。学業の合間にはバイトをして、友達と遊んで。
毎日はそれなりに楽しかった。
けれどもそれはがしたかったというよりも、皆がしている事だからもそれに習っていたと言えるかもしれない。
生と死が隣り合わせのこの世では一生の中で自分の成したい事をがいた世界よりもずっと真摯に考えるのだろう。
真摯に向き合い。真摯に祈る。
景時が連れてきてくれた大きな神社の境内はたくさんの人々が行き来していた。
行き交う人々はきっとその一人一人が大切な願いを抱いてここを訪れている。
「あの辺りはね」
景時が境内の一角を指差す。
「ほとんどが桜なんだよ。春になると一斉に咲き乱れるのがほんとに綺麗でね」
今は葉も落ち、桜の木々達は細い枝を剥き出しにして境内の歩道の一部に沿うように立ち並んでいる。
「素敵ですね」
一緒に見ようと、約束は出来ない。
半年後はもちろん、一ヶ月先も状況がどうなっているのか分からないのだ。
この世界ではという存在は根が無い草のように頼りなく不確かだった。
一ヶ月先どころか、明日の事すら。何一つ景時と約束を交わす事が出来ない。
そう思った途端、の胸に突如この世界と別れるという事がリアルに迫ってきた。
一日だってもといた場所を忘れた事は無い。両親や、祖父や祖母や、友人たちはどんなに自分の事を心配しているだろう。
毎日は、の傍に居てくれた大切な人たちの事を想っている。
だから、もといた世界に帰る。
右も左も分からないを労わって優しくしてくれた人々と別れて。
帰ったら皆とは二度と会えないだろう。と彼らとは生きる時代が違う。
あんなに仲良くしてくれた朔と別れて。
そして、奇跡のような思いやりをくれる景時と別れて。
「ちゃん?」
胸を押さえたまま俯くに景時は気遣うように声をかける。けれどは景時に大丈夫だと、たった一言返す事も出来ない。
この世界と別れるのだ。
帰りたいと毎日考えていた筈なのに、いざそうなる事を想像すると足元が崩れ落ちていくような恐ろしさを感じるのはどうしてなのだろう。自分は何が怖いのだろう。
「ちゃん」
その時、景時がの胸元に寄せられた腕を引いた。静かな声音に反して景時の力は性急で強かった。
反動で素焼きの鳴り物がの手の内から零れ落ちた。パンと乾いた音を立てて足元で割れる。
それと同時にの背筋をゾクリと冷気が這い上がってきた。
忘れようにも忘れられない。この鳥肌が立つような感覚を味わうのは三度目だ。
「景時さん・・・!」
見回せば明るかった陽射しはいつの間に現れたのか厚い雲に遮られている。あれほどに賑わっていた境内はいつの間にか人影が見当たらない。うっすらと気味の悪いもやが辺り一面を漂っていた。
景時はを背に庇うようにしてすらりとした体躯に緊張を漲らせ、一段と濃くなっている靄の一点を鋭く見据えている。
薄暗い靄が段々と形を現し始める。鎧武者とも違う、その人ならざる影には息を飲んだ。
「ここで、じっとしていてね」
安心させるように景時がに笑いかける。
身を硬くしたままのを景時はそっと手近にある木へと押しやる。の丁度頭上の幹を景時は勢いよく片手で叩いた。
「景時さん」
自分の声が奇妙な感じに篭っていた。
境内を吹き荒れ始めた風は何故かの体を嬲る事が無い。まるでの体を薄い膜が覆っているかのようだ。
そしては指の先すら動かす事が出来ない。
景時がへ向けて手を伸ばすと、に触れる前にチリと青白い火花が散った。
「・・・我ながら、今までで一番の出来だよ。俺にもしもの事があっても、誰かが駆けつけるまではもつ筈だから」
景時は天に銃口を向けて一発の弾を放つ。その弾道は耳を震わす高い音と共に灰色に淀んだ空を切り裂き真っ白な軌跡を描いた。
は辛うじて動かせる目で真っ白な弾道から頭の上に目線を動かす。木の幹にはぴたりと薄い黄色の札のようなものが張り付いている。びっしりと刻まれた細かい文字の中心には朱色の五芒星が力強く書かれていた。
まるで身体に沿うようにしての動きすら封じて張り巡らされたのは堅固な景時の結界だった。
景時は天に向けていた銃口をゆっくりと前方へ戻す。
霧のような靄はいつしか輪郭のぼやけた黒い塊になって徐々に景時に近付いてくる。
いや、その禍禍しい黒い塊は景時を飛び越し、思念を真っ直ぐにに向けてくる。実体の無いおぞましい手で撫で回されるような感覚にの全身が総毛立った。
「お前の相手は俺だ」
言いざま景時は黒い靄の中心に銃弾を打ち込んだ。
途端に耳を覆いたくなるような奇声が上がる。
蠢く塊を覆う黒い靄が瞬時に吹き飛び、中から現れたのは長身の景時の二倍もあろうかという獣だった。
その姿形は鼠にそっくりだったが、その身体を覆う毛皮は青白い燐光に包まれており、両目は血を思わせる赤さでギラギラと光っていた。耳まで裂けた口からは鋭い牙が幾本も覗き、胸元で構えられた前足の爪は脆い人の身体など造作なく切り刻めそうなほどに鋭い。
その異形の獣の出現に取り乱す事なく、景時はゆっくりと得物の照準を合わせる。
「アアアァァァアアアーーー」
身の毛のよだつような奇声を化物があげた。胸元で術が込められた景時の弾が破裂し大鼠の身体を抉る。
しかし鼠はずるりと一歩、前方に足を踏み出す。
立て続けに二発、景時の銃口が火を放った。
「シャャァァァーアアアァーー」
鼠の喉元と腹部で銃弾が弾けるがその歩みが止まるまでのダメージは与えられない。
また一歩、化物は景時に、に近付く。
大きく裂かれた口を開け鼠は景時とに向かって身を震わせた。音としては野鼠がチッと鳴き声を漏らしただけとしか感じられなかった。
しかし景時との視界一杯に青白い光が満ちる。
「!」
たまらずに目を瞑ったの身体を細かい振動が強く叩く。
身体を叩く振動が止んでからうっすらと目を見開くと、の足元に鈍く光る無数の針が落ちている。
「何・・?」
の足元には長さは10センチもあろうかという銀色の太く鋭い獣の毛が落ちていた。これが全て身体に突き刺さったら多分命は無い。
「景時さん!」
「・・・大丈夫だよ」
景時が大きく息をつく。
景時の足元には数十本の獣の毛と、粉々に砕けた護符が落ちていた。
「あと何回かは持ち堪えられるから」
笑う景時の頬には一筋の赤い傷が走っている。とっさに張った結界では攻撃を防ぎきれなかったのか。
景時の武器ではこの戦いはあまりにも不利だ。
望美が持つ剣や朔が持つ舞扇であれば敵の攻撃を薙ぎ払う事も受け止める事も出来るだろうが、景時の得物では接近戦に向かない。
「景時さん・・・!」
「少しの間、目を瞑っていて」
景時がもう一度銃を構え直す。
もう何度銃弾を打ち込んだのか。それでも異形の獣の動きを止める事が出来ない。
再び獣が小さな鳴き声をあげる。視界が青白い光に埋め尽くされる。
「・・・っ!」
強固な結界に遮られていてさえ、の身体に伝わる振動は激しい。
「景時さん!」
景時は変わらぬ姿勢でこちらに向かってくる化物に銃口を向ける。だが、銃を持たない左腕は朱に染まりだらりと下げられていた。
指先から滴る雫は景時の足元に落ち、地面に赤黒い染みを広げていく。
いやだ。
こんなのは、いやだ。
景時の負担になり守られるばかりだなんて。きっと自分がいなければ景時ならどのようにも切り抜けられた。
景時が命を賭けて守る価値など自分には無いというのに。
朔も、景時も、この世界に居る何人も、自分の為に危険に晒されるなんて絶対にいやだ。
の眼前で鮮やかな赤と共に細かな羽根が散った。驚き目を瞠るの前で次々と小さな羽毛が弾けて散る。
は声も無くその光景を見つめていた。
地面には無残に身体を引き裂かれた小鳥達が無数に落ちている。
「駄目ッ・・・!」
と景時に向けて放たれた閃光を遮るようにして小鳥の群れがその光の中に身を躍らせた。
空中にはこれまでの比でないほどの小さな羽根が舞う。
息をする事も忘れ、は力尽きて小さな肉の塊なった小鳥達が地面に転がる様を見る。
景時を守りたいと願った自分の所為だ。小さな命達はの想いを汲み取りその身を投げ出し続ける。
一つ、一つと小さな骸が地へ落ち、その数を増やしていく。
悲しみ、怒り。今までにこれほど強く感じたことはない。感情が激しい渦を巻いた。
の胸が焼けたように熱くなる。
「もう、やめて!」
パンと破裂音と共にの身体の自由が回復する。を包み込んでいた膜のような物も同時に消滅した。
その音に驚き景時はを振り返る。
僅かな時間、景時との視線が交錯した。
景時の背後には再び青白い光が膨らみ始め、の瞳に映る青い閃光はみるみるとその大きさを増していく。
「!」
景時はを抱きしめたまま横飛びに倒れこんだ。
が背にして立っていた木が根元だけ残して大破する。
「景時さん!」
こめかみから溢れ出た景時の血がの頬を濡らした。
は自分に覆い被さる景時の身体を思い切り抱きしめる。
「・・・ちゃん」
だいぶ体力を消耗してしまったのか、を抱き返す景時の力は弱かった。
どうすればいい。もうこれ以上あの異形の獣を押しとどめる方法が無い。
自分にも皆と同じに戦う力があれば。
が唇を噛んだその時、景時が弾かれたように面をあげた。
「・・・お前、いいのか」
誰にとも無く呟いた景時はを地面に座らせたまま獣に向かい立ち上がる。
息を深く吸い込んだその背中がしなやかに伸びた。
「西天を守りし聖獣白虎よ、我に下り、我が命をもって、汝が爪で敵を割け!」
大鼠の燐光をかき消すほどの光が達に降り注ぐ。遥か頭上に出現した光が少しずつ形を成していくのが分かった。
それがはっきりと形を現してからも光が消えることはなく、ますます燦然と強まる。
四つの足には象牙をあしらえたかのような真白の爪を備え、純白と漆黒の交互に連なる滑らかな毛並はそれぞれに美しい光彩で輝いている。その二つの瞳は眩い黄金色。
それはまごう事無き白虎の姿だった。
体長は悠に三メートルは越えるだろう。白虎はその巨体をまるで体重を感じさせない軽やかな動作で宙から地面へと着地させた。
白虎が唸り声を上げる。それだけで鼠は気圧されたように一歩身体を後退させる。
禍禍しい青白い燐光を纏う大鼠も全身から真白の光を放つ白虎も異形のものに違いないが、その格は明らかに違った。
更に一声咆哮を上げた瞬間には大鼠が避ける間もなく白虎はその首筋に鋭い牙を突き立てていた。
それからは大鼠が抵抗らしい抵抗を見せることも出来ない一方的な殺戮となった。
白虎の牙が鼠の骨を噛み砕き、白虎の爪が鼠の身体を引き裂いて抉る。
「ちゃん」
の視界を閉ざすため手を翳そうとする景時には首を振った。
この戦いを自分は見届けなければと思ったのだ。
こんなにも凄惨な場面であるのに、この場に満ちていた息苦しい邪気がみるみると晴れていくのはどうしてだろう。
白虎は大鼠を貪り噛み砕き、自分の体の中に取り込んでいる。だがはその行為をおぞましいとは思わなかった。
むしろ自分の身体に入れることで白虎が淀んだ気を浄化してくれているように思えた。
「・・・ユキ」
はその気高い獣の名前を呼ぶ。
訳も無い、理由も無い。
には分かったのだ。猛々しい性質を併せ持ちながら、ふわりと包みこむ清浄で柔らかいこの気配を自分は良く知っている。
姿形は変わってもあの白虎はユキだ。
白虎は大鼠を食らい尽くし、その場で景時とを見やり佇んでいる。
「ユキ」
の呼びかけに応じて白虎はゆったりと歩を進め、こちらに向かってくる。
片手で撫でてやれる大きさだったユキの頭は今はの両手で一抱えあるほどに大きい。
それでも鼻頭は可愛らしいピンク色のままだった。ぐるぐると心地良さげに喉を鳴らす仕草も変わらない。
立ち上がったの胸元に白虎はそっと額を擦りつける。
首頭に抱きつけばそのビロードのような肌触りの良い毛皮は確かにユキの物だった。
「白虎の力を俺は解放してしまった。これからは今までのように一緒には居られなくなるよ・・・」
それは確かに寂しい事だけれど。
表情を曇らせる景時には首を振る。
「ユキは、私達を助けてくれたんですよね」
滑らかなその毛並は柔らかいが、触れればじわりと指先を暖めるユキの体温を今は感じなかった。ユキは今までとは違う何かに変わってしまった。いや、こちらが多分本来の姿なのだろう。
「傍に居てくれて、ありがとう」
の細腕に頭を預けていたユキは甘えるように一つ喉を鳴らすと、あっけなくの手の中から溶けるように消え失せてしまった。
気付けば空を覆っていた厚い雲は跡形もない。
カラリと晴れた秋空の下、境内は何事も無かったかのように訪れた人々が行き交っている。
境内の入り口に血相を変えた朔と望美達が姿を現した。こちらに駆け寄ってくる。
「ああ・・・、また朔に怒られるよ・・」
あの大鼠を前に最後まで毅然としていた景時は、年の離れた妹の出現に憂鬱そうに溜め息を零した。
そしていつものようにおどけて首を竦める。
胸に未だ悲しみを残しながらもは景時に応えて笑みを浮かべ、手巾で景時の傷を押さえた。
「景時さん、ありがとう」
少し間を置いてから青みがかった翡翠色の瞳がゆるりと弓なりになる。
ユキと同じく、その澄んだ瞳は常にを静かに、暖かく、見守り続けてくれた。
二人は身体を支えあうようにしてゆっくりと仲間達のもとへ歩き始めた。
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