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このごろは夜ともなれば身体を震わせるほどに寒さが厳しい。冬は着々と近付きつつあった。
キンと澄んだ空気の中、満月に近付き丸く肥えた月は冴え冴えと輝いている。
傷の手当てと今日下鴨神社で遭遇した鉄鼠の報告を済ませ、景時は自室で一息ついていた。
この時期にもなれば締め切る襖を今夜は開け放し、景時は飽くことなく月を見上げる。
ふと、トタトタと板張りの渡殿を鳴らす控えめな足音に気付き景時の口元が綻んだ。
「どうしたの。眠れないの?」
「こんばんは」
ふわりと羽織った厚手の打掛の襟元を押さえるようにして戸口にが立っていた。
「あの、傷は大丈夫ですか」
「心配して訪ねてきてくれたのかい?」
両手で胸元を押さえたまま、幼い所作でコクリとは頷く。
景時が入るように促せば、は素直に従い壁に凭れかかっていた景時の真横に腰を降ろした。
「出血は酷かったけど、それほど深くは無いよ。傷はもう塞がりかけてる」
「良かった」
心底ほっとしたようには深く息を吐き出した。
「・・・ごめんね」
大きな瞳を瞠っては景時を見上げる。
「昼間は怖い思いをさせたね。あれは完全に俺の油断だ・・・」
「いいえ」
驚くほどに強くは言い切る。
「確かに最初は怖いと思ったけど、途中からそんな事思う余裕も無くて」
月光を反射する亜麻色の瞳を景時は魅入られたように見つめていた。
「どうしたら景時さんの力になれるだろう、助けになれるんだろうって、そればかり考えていて。でも・・」
の瞳にはみるみると涙の膜が張っていく。
「あの子達が・・・」
雫が一つ零れ落ちると、あとは堰を切ったようにの瞳からは涙が零れ落ちた。涙は落下しながら何度も青い月光を瞬かせた。
「ちゃん」
この場を取り繕うだけの慰めなどは口にしない。
は小さな命達を悼み静かに涙を流しつづける。景時はその小さな肩を何も言わずに抱いていた。
「景時さん、私・・」
「うん」
泣き腫らした瞼を閉じたまま、は力の抜けた身体を景時に預けてくる。
景時は真っ白な月を見上げたまま僅かにの肩を抱く腕に力を込めた。
「この世界に来た頃は怖くて寂しくて、早く帰りたくて堪らなかった。けど、今はもとの場所と比べられない位ここが好きです。野山に暮らす子達が今日みたいな事に巻き込まれずに穏やかに過ごしてくれればいいって思う。それから早く戦や争い事が片付いて、朔や、景時さんや、皆が何の心配事もなく暮らせるようになるといいなって心から思います」
「そうだね・・・」
「景時さんの心配事も早く片付くといいな・・・。私じゃきっと役に立たないですよね」
には何度驚かされる事か。
「俺の・・・心配事?」
瞠目する景時を見てはハッとしたように口元を押さえた。
それから窺うようにそろりと景時を真横から見上げる。
「ごめんなさい、わかったような事をいって。でも景時さん、時々難しい顔をしているし。どうしてか笑顔が辛そうな時があって・・・」
平家一門を離れ源氏側に身を置くようになってから、心の内を表情から消す事は景時が生きる為の術だった。
大抵の人間の目には梶原景時という人間は軽薄で調子の良い人間としか見えないだろう。実際、そうとしか取れないように振舞ってきたのだ。
にも皆と同じ態度で接する事が多かった筈だ。
「やっぱり・・・君には不思議な力があるんだね」
「あ、はい。物心ついた時からなんですけど、やけに動物達に好かれて。景時さんが気持ち悪くないって言ってくれて嬉しかった」
目元を涙の跡で赤く染めたままがふわりと笑った。
景時の言うのはの中の中神の事ではない。
それはが持って生まれた深い慈愛の心だ。
相手の心を慮り、自分より相手を優先するのは人に対する恐れでも、人の顔色を窺っているのでもなく、相手を無条件に深く慈しむ心が自然とそうさせてしまうのだ。その心の向けられる対象はが接する命の全てで、命を愛しむ心は枯れる事無く周りに与えればそれだけ後から後から湧き上がる。
中神の器となる者に以上の存在は無いだろう。
この身に変えても守ろうとしていた人は、逆に暖かい手を懸命に自分を差し伸べてくれていた。
の表面にのみ気を取られて、その内面の深さ、大きさに今になってやっと気付いた。
吉神と同じ心を、魂を持つその人は自分の価値など気付きもせずに景時の前で静かに微笑んでいる。
「夢と知りせば・・・覚めざらましを」
「なんですか?」
「昔から人の想いは変わらないね」
は景時の言わんとする事が分からずに不思議そうに小首をかしげている。
「君と会えて良かった」
「私もです。景時さんや、みんなに会えて良かった」
は屈託なく笑う。
「君が役に立たないなんて事ないよ。俺は、君と出会えて救われた」
景時はをその両腕にきつく抱きしめた。
驚いたようにの身体が一瞬強張る。しかしすぐに強張りを解き、はその身を景時に委ねた。
「オン・ウカヤボダヤダルマシキビヤク・ソワカ」
月明かりが照らすだけの室内に突然眩い光が満ちる。
「え、何?ユキ・・?」
は気配だけで白虎の存在に気づいた。
使役されるものに下ってからも開放された白虎の神気は凄まじく、景時の呼吸が浅くなる。
呼び寄せられた白虎は使役される事を拒むように宙を掻き、首を荒々しく打ち振るっていた。その黄金色の瞳は爛々と輝き景時を射殺そうとするかのように苛烈な視線を投げつけてくる。
常とは違う乱れた白虎の気配に、は景時の腕の中で身動ぎその姿を確認しようとする。
景時はの動きを封じるように更にその細い身体を強く抱きしめた。
「景時さん・・・?」
「いいかい、ここであった事は夢だったと思うんだ。ちゃん、元気で」
更に言葉を紡ごうとするの唇を景時は塞いだ。
「あ・・」
吐息ともつかない声がの桜色の唇から漏れた。至近距離でと景時の視線が絡み合う。
「急急如律令」
猛る荒神は地を這うような唸り声を上げている。それをものともせず景時は高らかに命を下す。
「聖獣白虎よ、理を正し、時の歪みを正し、全てをあるべき姿へと戻せ」
「景時さ・・・!」
いつまでも見ていたいと思った亜麻色の瞳は渦巻く光に飲み込まれ、かき消されてしまった。
景時の手の中にはが羽織っていた内掛けが一枚残された。そしてもう一つ残されたのはから香っていた焚き染められた紅葉香の残り香。
全てが終わって、身体を完全に弛緩させて景時は壁に背を預ける。
景時の前で白虎は牙をむき出したまま唸り声を上げ続けていた。
主従の契約を交わしたというのに、こうも反骨精神に満ち溢れている式神は自分の手には負えない。
景時は苦笑を閃かせながら一つずつ使役解除の印を結んでいく。
『我を解放するか!ならばそのすぐ後にお前の喉笛を噛み砕いてくれる!』
天を突き破るような咆哮を白虎は上げた。
荒れ狂う白虎に構わず景時は印を結びつづける。
最後の印を結び終え、景時は宙に留まる白虎を見上げた。
「どうした、お前はもう自由だ。俺の行いは到底許せないだろう?好きにすればいい」
先ほどとは打って変り荒ぶる神気を収め、白虎は琥珀色に輝く双眸を静かに景時に向けていた。
『・・・我と同じくお前も永遠に主を失った。その長くも無い命を主の不在を嘆き、もがき苦しみながら生きるがいい』
「言われなくても、きっとそうなるよ・・」
苦い笑みを更に景時は深くする。
「白虎、行くのか」
『我は白虎ではない。倖だ。主は我に新たな名前を下さった』
身体を翻した白虎は一度だけ景時を振り返った。
その後、何処か誇らしげに天を仰ぐと、そのまま屋根へ向けて白虎は飛び上がる。天井へ衝突する寸前に白虎の姿は掻き消えてしまった。
もう会うことはないだろう。
白虎にも。
もちろん、にも。
「・・・・何事ですか」
開け放たれた私室の戸口には弁慶が立っていた。
その目線は景時が片手に掴んだままの女物の内掛けに釘付けになっている。
「それは・・。朔さんの?」
「いや・・」
「・・・では、さんの?」
無言のままでいる事が答えだった。
「先ほどからさんの姿が見えないようですが」
「それは・・・夏の終わりの夢が、覚めたからだよ」
弁慶は形の良い眉を片側だけ持ち上げたが、それ以上は景時に問う事は無く、だらしなく床に座り込んだままの景時の正面に胡座で腰を降ろした。
「付き合いませんか」
陶器の酒瓶の括り紐を指に引っ掛け、弁慶は景時の目の前に掲げて見せる。
「珍しいね。厳格な軍師殿が出立の前夜に酒を嗜むなんて」
「君の嫌味も珍しいですよ」
弁慶は行儀悪く手を伸ばし水差しの脇に転がっていた盃を二つ取る。
小さく笑いながら景時は弁慶の盃を受けた。
「そんなにも、彼女を戦に巻き込みたくなかったのですか」
「それは違う」
盃に浮かんだ月を甘い芳香が立ち上る酒と共に景時は飲み干した。
甘いはずの酒が今夜はやけにきつく喉を焼いた。
これ以上傍にいれば手放せなくなる。
だからこうする他無かった。
のためではなく、半分は自分のためだ。
凶事とは無縁のもといた場所で、には穏やかな生活を送って欲しい。それがの幸せだと最初からわかりきっている事だ。
後悔は数々あるが、最後の最後に忘れろといったその口でを惑わすような真似をしてしまったことが景時の酒をますます苦いものにした。
「君も難儀な性格ですね・・・」
笑って更に弁慶から受けた酒を飲み干し、見開かれた景時の目の色にはもう迷いは無かった。
は皆が憂いなく暮らす未来を望んでくれた。
だから自分はにこれ以上恥じる事が無いように、目を背けずに成すべき事をする。
と出会えた事が景時の中で揺ぎ無い道標となった。
それから、源氏が平家を追い詰め壇ノ浦で完全な勝利を手にしたのは二月も経たない冬の最中の事だった。
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