鞍馬寺の裏から獣道を延々と辿った山奥に小さな庵がある。
その庵はまるで周りの木々に同化しているかのようで、しかも道らしい道も無いものだからまずここには人が訪れる事は無いだろう。
牛若丸以外には。
「失礼します」
一言断わってから牛若丸はその庵の質素な引き戸を開ける。
「来たか」
牛若丸の師であるリズヴァーンは小さな囲炉裏のある板の間で姿勢を正して静かに座していた。
普段から寡黙なリズヴァーンは今日も牛若丸が口を開くのをじっと待っている。
「鬼に、会いました」
「そうか」
「・・・・討ち果たす事は叶いませんでした」
さも悔しそうに牛若丸は形の良い桜色の唇を噛み締める。
「何か得るものがあったのならば、それでいい」
師の青い双眸が緩やかに撓むのを見てやっと牛若丸は四肢の強張りを解いた。
軽く一つ手招きをされてやっと牛若丸は師の傍により、囲炉裏の前に腰を降ろした。
「強かったか」
「はい・・・」
牛若丸は数日前に遭遇した鬼の事を思い浮かべる。
もっと筋骨逞しく、雄々しい髭を蓄えた大男なのかと思っていたが、実際の鬼は牛若丸よりは背丈はあったものの優しげな顔立ちのすらりとした体躯の青年だった。
自分よりも目下だとわかっているだろう牛若丸に慇懃無礼な物言いを崩さず、牛若丸も相手の挑発にまんまと乗り心身ともに翻弄されてしまったのだ。鬼は牛若丸と比べると心・技・体においてその全てが勝っていた。
「己の力量を知ることも大切だ。無駄な事は何も無い」
「はい」
その言葉で師の真実の狙いに牛若丸は気付いた。リズヴァーンは牛若丸が鬼に敵わない事を最初から知っていたのだ。
「先生は鬼を知っていらしたのですか」
「私は天狗と呼ばれているくらいだ。鬼の知り合いがいてもおかしくないだろう」
「はあ・・・」
師らしからぬ人を喰ったような物言いに牛若丸は少し返答に困る。
「遮那王」
「は、はいっ!」
牛若丸の背筋が伸びる。
この新しい呼び名にはまだ牛若丸は慣れない。そしてこの名は師であるリズヴァーンの他、鞍馬寺別当以下ほんの数人にしか呼ぶ事を許されていない。その理由を牛若丸は知らない。
「遮那王、大きくなったな」
リズヴァーンの暖かな手が牛若丸の頭を撫でる。
牛若丸が鞍馬山に預けられたのは七歳の頃、それから八年の月日が流れていた。
「もう子供ではないのだな・・・・・」
くしゃりと牛若丸の前髪を撫で上げ、師の手は牛若丸の頭から離れていく。その暖かさが離れていくのを牛若丸は残念に思った。
「遮那王、私はしばらく所用で京を離れる。その間鍛錬を怠らぬように」
「お戻りはいつ頃になるのですか」
子供ではないと言われた傍からこの様だった。
自分の瞳に不安げな色が揺れているであろう事を自覚し、牛若丸の顔が火照った。
「すぐに戻る。心配しなくても良い」
リズヴァーンは赤面する牛若丸に安心させるように言い含める。
数日留守にする事があっても師が京を離れる事など牛若丸が物心ついてからなかった事だ。
もう子供ではないのだ。
自分と師の関係が今まさに変わろうとしている。牛若丸はその事を肌で感じ取っていた。
「無事のお戻りをお祈りします」
リズヴァーンは一つ頷くと瞬く間にその姿を牛若丸の前から消した。

「もう、子供じゃない・・・」
牛若丸は噛み締めるように呟く。
あの夜に痛感したのだ。自分は師の懐の中で滅茶苦茶に剣を振り回して強くなった気でいただけなのだと。
この世は広い。師以外にも自分より強い者はいくらでもいる。自分が預かり知らぬ事が数え切れぬほどにある。
何のために自分は力を得ようとしているのか。
王の一文字を名に抱く自分の成すべき事とは。
周りが自分に期待を寄せているのがわかる。そして自分自身も一日でも早く立派な男子として自分の足で立つことを望む。
強くなりたい。
いつかその力を使うべき時の為に。
守られるだけの時は終わったのだ。
九郎は後方の竹薮を太刀で思い切り薙ぎ払った。竹薮の若芽が勢い良く刈り取られて見晴らしの良い空間が突如できる。
「相変らずですねえ。牛若丸、君に会いに来ましたよ」
牛若丸が声の先を見やると鬼若がぷらぷらと片手で竹薮からかなり離れた大樹の枝にぶら下がっている。
鬼はあの夜の約束を守り律儀にも牛若丸に鞍馬山まで会いに来たのだ。
不意を突いたというのに鬼若は瞬時にあれほど遠くにまで飛び上がってみせた。
膂力どころか、牛若丸が少なからず自信を持っていた俊敏さまで鬼若は牛若丸の上を行くというのか。涼しげに余裕の笑みを見せつつ、こちらに向けて空いた片手を振っている鬼若が心の底から憎らしい。
「俺はもう牛若丸じゃない!!!」
遮那王は怒りと悔しさに任せて思い切り吠えた。











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