鬼若はまるで重さを感じさせない動作でひらりと枝の上に飛びあがった。
「降りて来い!鬼!!」
遮那王の怒鳴り声を聞きながら鬼若はにっこりと微笑む。
「牛若丸じゃなければ、君の事を何と呼んだらよいのでしょう」
「しゃっ・・・、誰が教えるか!!」
「そうですか。それならば僕も本当の名前を君に教えるのはやめましょう」
「何をっ!!!」
遮那王の顔は怒りの余りどんどん赤らんでいく。熱くて頭から湯気が出てしまいそうだ。
のらりくらりと遮那王をからかい遊ぶ鬼若に焦れて、遮那王は自ら切り開いた竹薮に勢い良く足を踏み入れた。
しかしどうした事か乱暴に竹薮を掻き分けて突き進む遮那王に鬼若は慌てた素振りを見せた。
「牛若丸!待って、待ってください」
上擦った鬼若の声が聞こえる。
鬼若が上った大樹の足元にもう少しで辿り着こうとする所、そこで遮那王が大樹を振り仰ぐとそこには鬼若は既にいない。
「まったく、無茶をして」
突然に耳元で囁かれ遮那王はギクリと大きく身体を揺らした。
振り返ろうとしたその瞬間に遮那王の身体はふわりと宙に浮く。そして遮那王は一瞬にしてもと居た訓練の場として使っている拓けた竹林の中央に逆戻りしていた。
「まあ、その無鉄砲な所も可愛いのですが」
心地良い柔らかな声が頭上から落ちてきて遮那王が顔をあげると、間近から鬼若が遮那王を見下ろしていた。
そのほっそりとした身体のどこにそれほどの力があるのか、鬼若は軽々と遮那王を抱き上げて一気に遮那王の訓練場まで跳躍したのだ。
遮那王の前では笑みを絶やさなかった鬼若が今は笑っていない。遮那王も咄嗟に言葉が出てこなかった。
枯葉が幾重にも降り積もった場所に鬼若はまるで壊れ物でも扱うかのようにそっと遮那王を降ろす。
「ほら、見て御覧なさい」
鬼若に促され、遮那王は自分の下肢に目をやる。
「いてっ・・」
鬼若が遮那王のふくらはぎに手を添えている。引き絞られた水干袴は遮那王の膝下までしかなく、その水干袴の下、滑らかな赤子のような肌を持つ遮那王の両足は密集する藪の中で痛々しく傷ついていた。
切り傷は無数にでき、中には皮膚を通り越して赤い肉がチラリと覗く傷まである。傷から滲み出した血は草露に薄められて遮那王の足を薄紅色に染め上げていた。
「思ったより酷い・・・」
鬼若の眉は顰めるように軽く寄せられている。初めて見る鬼若の真剣な表情を遮那王は食い入るように見つめていた。
あの晩、鬼若は自分を女のようだとからかったが、自分だって女に間違われる位に綺麗な顔をしているじゃないか。
遮那王の師であるリズヴァーンは恵まれた体躯に加えて整っているが精悍な男らしい顔立ちをしている。自分もあのように雄々しく美しい、立派な男になりたいものだと遮那王は憧憬の念を師に持っていたが、全く真逆の位置にいながらも鬼若も遮那王の目には眩しく見えた。
確かな腕に加えて鬼若には遮那王がまだ持ち得ていない冷静さがあった。
これではいくら遮那王が鬼若に立ち向かった所で打ち負かすことはできないだろう。
遮那王は軽く伏せられた鬼若の瞼を豊かに縁取る長い睫を見つめ続けていた。
「終わりましたよ」
突然に伏せられていた瞼が持ち上げられて、鬼若の視線が遮那王のそれとぶつかる。鬼若は我に返った。
「少し熱を持つかもしれません。今夜一晩はそのままにしておいて下さい」
遮那王が自分の両足を見下ろすと傷だらけの足は綿布でしっかりと覆われていた。
蛤の薬入れを鬼若は腰に下げられた袋の中にしまう。
「小さな子供ではないのですから。結果がどうなるのか考えて行動しなければいけないでしょう、牛若丸?」
「すまない・・・」
謝罪の言葉は素直に遮那王の口から出た。
鬼若は少し驚いたように双眸を軽く見開いたが、それからすぐに穏やかな笑みを滲ませた。
「傷口の毒を消す薬を塗り込めておきましたから、酷く膿む事はないと思いますよ」
「ありがとう」
再び鬼若は驚いたように両目を見開いた。
「今日は随分と素直なのですね」
鬼若は口元に笑みを綻ばせながら遮那王の前に片膝をついた姿勢のままでいる。
「鬼若、俺と勝負をしに来たのか」
「え、ああ・・・。そういう約束でしたね。でも今日は激しく身体を動かす事はやめた方が良いですよ」
鬼若は九郎を労わるように綿布で覆われた両足にそっと手を置く。
「・・・・俺」
口を開くのに逡巡したが、遮那王は鬼若に向けて勇気と声を絞り出す。
「俺は、お前よりまだまだ・・・・弱い。だから、きっと勝負してもお前には今は勝てないと思う。でも、この太刀は先生が俺に下さったものだからお前にやるわけにはいかない」
鬼若は遮那王を遮る事なく、静かに遮那王の言葉に耳を傾けている。
「俺は、今よりももっともっと強くなる。強くなるから、その時はまた俺と勝負してくれるか」
淡い色彩の鬼若の澄んだ薄茶の瞳には出会った時の遮那王をからかうような色は無い。遮那王は逸らさずにじっと鬼若の瞳を見つめる。
「はい、喜んで」
遮那王をひたと見つめていた鬼若の双眸が優しく撓んだ。
「そうか、良かった!」
鬼若の返事に遮那王も嬉しくなり、にっこりと思い切り破顔した。
するとまた鬼若は驚いたような顔をして再びじっと遮那王を見る。その視線の熱さに居心地が悪くなり遮那王は尻の座りをもぞもぞと直した。
「なんだお前はさっきから。俺の受け答えはそんなにおかしいのか?」
「ふふ、いいえ。随分と色んな表情を見せてくれるのだなと思って・・・・。とても嬉しいです」
「な、何を言ってるんだお前は。そんな事くらいで・・・・」
そんな物言いをする人間は遮那王の周りにはいない。何故か頬が火照って仕方がなく、それを誤魔化すように遮那王はごしごしと自分の顔を擦った。
「あ、そうだ!」
自分の身体に絡みつく不可思議な空気を吹き飛ばしたくて遮那王は必要以上の大声で話題を切り替える。
「先生はしばらく京を留守にするんだ。その間俺は一人でしっかり鍛錬するように言い付かっていたんだが、鬼若。お前の都合さえ良かったら俺の鍛錬に付き合ってくれないか?お前は俺よりも強い。俺はお前から学ぶべき所がたくさんあると思うんだ」
とてもいい事を思いついたと、遮那王は満面の笑みで鬼若に持ちかけた。
鬼若も楽しそうに、にこにこと笑っている。
「牛若丸、君は打ち負かしたいと思う人間に剣の指南を請うのですか?」
「あっ!」
遮那王の満面の笑みが驚愕と羞恥の表情にあっという間に変わる。それと同時に鬼若は弾かれたように声を立てて笑い始めた。
「そんなに笑う事はないだろう!」
「あは、あははは。すみません」
むくれる遮那王の前で鬼若は笑いを必死でこらえようと顔を俯け前に屈み込んでいるが、肩の震えを隠す事が出来ないでいる。くつくつと喉を震わす笑い声は止まない。
感情を乱さずにずっと遮那王の前では余裕の笑みを浮かべていた鬼若がこんな大声を上げて笑うのかと、遮那王は内心驚いていたのだがやはり自分が笑われるのは面白くなかった。
「ならもういい!!鬼若には頼まない!!」
「ははは、すみません。牛若丸、怒らないで」
屈んで顔を俯けていた鬼若が下から覗きこむように遮那王を見上げる。間近で透き通る薄茶の双眸に覗き込まれてぐっと遮那王は喉を詰まらせた。
「笑いすぎだ、鬼若はっ」
鬼若にそう言われれば怒りも続かず、それでも怒っているのだと態度は崩さずに遮那王はふいとそっぽを向いた。
「稽古の相手に選んでいただけるなんて光栄ですよ、牛若丸。早くこの傷を治してくださいね、楽しみにしています」
そう言い鬼若は優しく遮那王のふくらはぎを摩る。
しばらく遮那王はそっぽを向いていたのだが、黙ったままふくらはぎを撫でてくれる鬼若に対し余りにも狭量な態度であると遮那王は意地になるのをやめた。
「・・・よろしく頼む」
「はい。こちらこそ。ああ、でも・・・」
「何だ?何か不都合でもあるか?」
言い淀む鬼若に遮那王は首を正面に向けた。
鬼若は相変らず笑みを絶やさず、穏やかに遮那王を見つめている。
「考えてみると、勝負に勝てないけれど太刀は譲らない。その上鍛錬に付き合って欲しいなんて牛若丸は少しずるいんじゃないですか?僕ばかりが損をしているような気がします」
「それはっ・・・」
遮那王は反論できなかった。
確かに鬼若が得をする事など一切ない様に遮那王にも思える。
「今すぐには無理だが、いつか必ず礼をするから・・・・」
今の遮那王は寝食に困る事はないが、自分が好きにできる金銭はほとんどない。私物だって身の回りのささやかな物しかないのだ。
唯一の資財といえるのは母が別れの際にくれた水晶の宝玉だが、申し訳ないがそれは譲るわけにはいかない。
ならどうやって鬼若に礼をすれば良いか、遮那王はしばし真剣に考えていた。
「んむ」
間が抜けた声が自分の物だと気付くのにしばらく時間がかかった。
思考の海を彷徨っていた意識を戻してみると鼻が擦れ合うほど近くに鬼若の顔がある。
あっと驚いて遮那王が声を上げればその開いた唇にすかさず鬼若が吸い付いてくる。
「んんん!!」
ぞろりと口内に柔らかい物が潜り込んで来た。それは遮那王の頬の粘膜やら歯の裏やら好き勝手に力強く撫でていく。それが鬼若の舌だと気付く頃には遮那王は息も絶え絶えになっていた。
こんなに長い間口を塞がれてはいつ息を吸えばいいのかわからない。
首筋を伝う生暖かいものは自分の唾液か。それには鬼若の物も少なからず混じっているのだ。
そう思った瞬間、かっと身体が熱くなった。脳が沸騰しそうだ。
「んんー!んぅっ・・・!」
自分に覆い被さってくる鬼若を引き離そうとするも遮那王の力は弱く、まるで縋り付いているかのように鬼若の背に遮那王の両腕がぶら下がる。
遮那王の舌を熱心に吸い上げていた鬼若の舌が今度は遮那王の上顎を擦るように舐めあげた時、遮那王の身体はビクビクと震えた。
「はっ・・!はぁっ・・・」
やっと口内を嬲る鬼若の舌が出ていった時、遮那王は胸を上下に波立たせ息を整えるだけで精一杯だった。
その波打つ胸に人肌が触れる感触に遮那王は息を呑む。
「あっ?!やっ・・・!」
着物の合わせ目からは鬼若の手が忍び込み、衣の下で遮那王の肌を確かめるように蠢いている。
「ひっ・・!」
女のような高い声が飛び出して遮那王の耳まで熱を帯びる。
その遮那王の柔らかな耳朶を鬼若が食み、口の中で遊ばせている。耳から首筋にかけて鬼若の舌にゆっくりと濡らされていく。鬼若の舌の熱さに遮那王の背骨を伝って得体の知れない感覚が続々とせり上がって来る。
「お、鬼若!!」
やっとの事で遮那王は意味のある言葉を叫ぶことができた。
「お礼なら君の身体一つで十分ですよ・・・・」
耳に息を吹き込むように囁かれて遮那王は身を捩る。いつの間にか遮那王はすっかり仰向けにされて、しかも足の間に鬼若の身体を受け入れさせられている。
「まっ・・・!う、んっ・・」
肌蹴られた胸元で鬼若の手がゆるりと動く。遮那王の胸の飾りを鬼若はキュウと摘み上げた。
「うっ・・、あっ・・、あ」
くりくりと捏ねるように指先を動かされて遮那王の背が思わず反り返る。
「それ、まっ・・!や、ああっ・・!」
「可愛いですね、君は本当に」
言いながら鬼若は少しずつ身体を下にずらしていく。
「あっ・・・足が痛いっ!!!」
ぴたりと鬼若の動きが止まった。
鬼若の剣のある視線に少々怯むも遮那王は元気一杯に叫び続ける。
「足が痛い!足が痛いっ!!足がっ」
「ああもう。わかりましたからそんなに耳元で喚かないで下さい」
大きなため息を一つ零し、鬼若は遮那王の上から起き上がった。仰向けに転がったままの遮那王の手を引き、遮那王の上体も起こさせると目の毒だとぶつぶつ言いながら鬼若は遮那王の前をきちんと直してくれた。
「君は本当にずるいですね」
「す、すまない・・・」
恨めしそうな鬼若の表情に襲われかけたというのに思わず遮那王は謝ってしまった。
足を理由にして逃がれた事を鬼若はちゃんと知っている。だから遮那王もじっとりと鬼若に見つめられて居た堪れない。
「あの、あの、じゃあ。俺の、名前を教える・・から」
語尾が尻すぼみになる。むやみに人に新しい名を教える事は禁じられていたが、自分の名前がそれほどに価値があるものとも思えない。だから礼の代わりになるのかどうか遮那王も自信がなかったのだ。
しかし遮那王の心配は杞憂に終わった。
「本当ですか?」
遮那王に向けて鬼若が晴れやかな笑顔を見せた。
鬼若に笑顔が戻って遮那王もほっとする。
「俺は遮那王」
「遮那王・・・、良い名前ですね。僕の事はこれから弁慶と呼んでください」
弁慶は座り込んだままの遮那王の手を引き立たせた。
「それでは手当てのお礼に今日は君の名前を貰っていきますね。次回の手合わせの礼は今度こそしっかり頂きますので」
屈託なく微笑む弁慶の前で遮那王は顔を火照らせたまま何も言えずに口を数度開け閉めした。そんな遮那王を前に弁慶はますます笑みを深める。
「お前っ!!俺は男だっ!!!」
「わかっていますとも」
鬼は弁慶という名前をもち、遮那王と同じ人だった。弁慶に向けて太刀を抜く事は今や躊躇われる。
遮那王は憤りに任せて素手で弁慶に掴みかかろうとしたがそれはあっさりと弁慶にかわされた。
「弁慶っ!!!」
「遮那王、三日後に」
ふわりと笑顔を綻ばせると、弁慶は軽く跳躍してもと来た竹薮の向こうに瞬く間に姿を消してしまった。
「あんな事もう絶対させないからなっ!!弁慶の馬鹿っ!!!」
遮那王の声が弁慶に届いたかは分からない。
あんな無体を強いられておきながら悔しいが、遮那王は弁慶とこの次に会う日が既に待ち遠しくなっていた。












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