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ため息を零せばそれは掲げ持っていた笛の中に入り込みひょろりと何とも締まらない音がした。
「何やら、物悲しい音色ですね」
遮那王が驚いて背筋を伸ばせば、戸口に立ち私室に篭りきりの遮那王を蓮忍が口元に笑みを浮かべて眺めていた。
心はここにあらず、手持ち無沙汰で蓮忍から譲り受けた黒塗の横笛を練習するでもなく弄んでいた遮那王はバツが悪く、正面に座る蓮忍を前に目を伏せた。
「武芸の鍛錬にあれほどに夢中になっていたのに最近は奥の院にも行っていないようですし、もちろんこの東光坊は遮那王の好きに使って良いですがここに篭り切りなのも心配ですね」
七つの頃から寝食の世話を受けてきた、その鞍馬寺別当にぐいと顔を覗き込まれては遮那王も口を割らずには居られなかった。
「私もたまには、笛や、歌も、学ぼうと」
「嘘を仰い」
遮那王の力無い言葉はぴしりと蓮忍に切り返される。ぐっと喉を詰まらせてそれ以上言い繕う事も出来ない遮那王に蓮忍は再び口元を綻ばせる。
「ここに来て、初めて友が出来たのです」
とつとつと話し始める遮那王を蓮忍は無言で見守っている。
「先生が山を離れてからは、その者が鍛錬に付き合ってくれていたのですがこの半月ほど会いに来てくれないのです」
最後に会ってからそれまで二日と空けずに鞍馬山を訪れていた弁慶がぴたりと姿を現さなくなり、その理由も分からずに遮那王は途方に暮れていた。
鞍馬寺に来る以前から遮那王の周りは大人ばかりで遮那王に年近いものは全く居なかった。だから弁慶と出会ってからは弁慶と手合わせする事を遮那王は何よりも楽しみにしていた。師の不在の不安など少しも感じなかった。
しかし弁慶が急に会いに来なくなり、遮那王の胸には思いの外大きな穴がぽかりと開いてしまった。
弁慶の不在は遮那王の気持ちを重く沈ませ、何事にも気が入らなくなってしまった。
「ふむ。遮那王は寂しいのですね」
「寂しい・・・?」
大きな目を瞠って己の心に向き合おうとする遮那王に蓮忍は目を細める。やっと心を囚われる相手が出来たかと蓮忍は蓮忍で気落ちする遮那王を喜ばしく思っていた。
「その友はどこに住んでいるのですか」
「それが、わからないのです・・・・」
途端に遮那王の細い肩ががくりと下がる。
弁慶は何故か遮那王の居場所を知っていて、何も言わずに会いに来てくれた。いつも弁慶が会いに来てくれるから遮那王は弁慶がどこに住んでいるのかなど聞きもしなかった。遮那王は弁慶の事を何も知らない。
そのことに改めて気付きますます遮那王の気持ちは重く沈む。
弁慶が会いに来てくれるのが当たり前になっていた。
弁慶が会いに来てくれなければいとも簡単に切れてしまうか細い糸でしか自分たちは繋がっていなかったのに。その事に全く思い至らなかった。
自分たちは何の約束すらしていない。
弁慶とはもう会えないのだろうか。時折妙な事を仕掛けてくるが、弁慶は遮那王にとって初めて出来た大切な友だ。
だから突然に訳も分からずに会えなくなった事が哀しいし、寂しくてたまらない。
「寂しいです・・・・」
口にした途端遮那王の中で持て余すほどの寂寥感が膨れ上がり、みるみると明るい亜麻色の双眸に涙の膜が盛り上がる。
「おやおや」
拭いもせずに目端から落ちるに任せている遮那王の涙を蓮忍はそっと親指の腹でおさえてやる。
「遮那王がそんなに辛そうにしていると、私の胸もまるで裂かれたように痛みます」
「蓮忍さま・・・」
胸が痛むと蓮忍が言えば遮那王ははっと目を見開いて今度は懸命に溢れる涙を堪えようとする。
よくもまあ、これほどに真っ直ぐに心根も優しく、大きくなったものだと蓮忍は思う。
我が子のように慈しんできた遮那王は今年で十五になった。世で言えば既に立派な大人だ。
自分の気持ちを偽る事を知らない無垢な遮那王を、大切に真綿に包むようにしていつまでも手元に置いておきたいとも思うが。
「心当たりは無くもありませんよ」
「本当ですかっ・・・!」
蓮忍の腕の中で項垂れていた遮那王が勢い良く顔を上げる。
「ええ、遮那王とやり合えるほど武芸に長けている者なら、そうですね。京は都よりも・・・比叡に居る者かも知れませんね」
蓮忍が言い終わる前からうずうずと身体を動かし始める遮那王を見て、蓮忍は苦笑しながら腕の中から遮那王を解放してやる。
「少し筆を借りますよ。ああ、綺麗なものですねえ」
全く使われた形跡の無い遮那王の硯で蓮忍は墨を擦り、赤面する遮那王の前で何やらさらさらと一筆認めた。
「この書状を持って比叡山は黒谷の青龍寺を訪ねて御覧なさい。うちの覚日が丁度そちらにいっている所です。遮那王、使いを頼まれてくれますか?しばらくは青龍寺に覚日と一緒に世話になりなさい。急がずとも良いです、気をつけて行っていらっしゃい」
「はい!!」
遮那王の顔からは涙は跡形も無く消え去っている。
少しの時間も惜しいとばかりに遮那王は蓮忍の目の前でばたばたと出立の準備を始めた。
「まあ、泣いているよりはずっと良いですね」
苦笑を閃かせて蓮忍は遮那王の私室を後にした。
用意が整った遮那王に手渡された使い物は片手で軽々と持てるような木箱一つ。
「では、これを必ず覚日まで届けてくださいね」
「はい!!蓮忍さま、行って参ります」
元気良く答える遮那王の足取りはまるで羽が生えているように軽やかだった。
遮那王の小さな背中はすぐに蓮忍の目が届かないほどに遠ざかる。鞍馬寺の門前で蓮忍は遮那王の姿が完全に見えなくなるまで佇んでいた。
「色々と見聞きして、様々な事を学んできなさい・・・・」
小さく呟いた蓮忍の言葉を聞く者は居ない。
そろそろ遮那王も知る世を、鞍馬山の外にまで広げなければならない。色々な世の理を知り、遮那王はこれから背負わざるを得ない出自の重さに耐えていかなければならない。平家が全盛を誇るこの世の中で生きていくという重さを。
(いつまでも童でいてくれたら)
零れ落ちそうになった本心を蓮忍は僅かな苦味とともに飲み込んだ。
汗ばむほどの陽気の中、懸命に足を動かし、遮那王は何とか日が暮れるまでに目的地に辿り着く事が出来た。
鞍馬寺に来てからこれほどに遠出をしたことは無かった遮那王は青龍寺の門をくぐる頃には鉛のように重い足を引き摺っていた。
たまたま行き会った若い修行僧に蓮忍から託された書状を渡すとすぐさま境内の離れ屋に案内された。
香が焚き染められた部屋で遮那王がまんじりともせずにいると、しばらくしてそっと戸が開けられた。
「ようこそお越しくださいました」
柔和な顔立ちをした壮年の僧が遮那王に戸口で膝を揃えて頭を下げる。
修行僧達と比べても幾重にも衣を纏った重厚な居で立ちでこの寺の中でも位が高い人物だと容易に想像がつき、そのような立派な者が遮那王に深々と頭を下げる事に驚き遮那王も慌てて頭を下げる。
「幸西様、こいつにそんなに畏まらなくっていいですよ」
聞き覚えのある声に遮那王が頭を上げれば、幸西と呼ばれた人物の後ろに覚日が立っていた。
「覚日さま」
見知った人物が現れて知らずに強張っていた遮那王の身体の力が少しだけ抜ける。
「そうですか?」
幸西はするりと覚日の言う事を受け入れて、少し身体を脇にずらし覚日を部屋の中に招き入れた。
「おー、牛若!!元気そうだなー」
緊張はやや溶けたが未だに肩を怒らせて正座したままの遮那王の傍まで覚日は荒っぽい足取りで近付くと、わしわしと大きな手で明るい夕日色の遮那王の髪をかき回す。
禅林坊覚日は東光坊蓮忍と並んで鞍馬山を取り仕切るほどの人物だ。だが思慮深く物腰も落ち着いている蓮忍とは対照的に破天荒で行動的な覚日は鞍馬山に留まらず外を出歩いてばかりいる。その事を蓮忍は特に不満にも思わないらしく、自分と足して丁度良いと静かに笑っている。最後に会ったのは確か昨年の春だったか。
黙っていれば蓮忍と同じほどに顔立ちが整っている覚日は呆けたように口を開けたままの遮那王にその端整な顔立ちが台無しになるような豪快な笑みを向け、ますます遮那王の髪の毛を滅茶苦茶にかき混ぜる。
「で、蓮忍に頼まれた物は何だ?」
「は、はいっ!」
覚日に揉みくちゃにされてふらつきながらも遮那王は恭しく蓮忍から託された木箱を覚日に手渡した。
「ほお・・・、これは・・・」
打って変り真剣な表情を浮かべる覚日を前に手放しかけた緊張を遮那王は再び取り戻す。
「牛若、よくぞここまで無事に届けてくれた。礼を言う」
「い、いえ」
蓮忍は比叡山を訪れる理由付けに遮那王に使いを言付けたとばかり遮那王は思い込んでいたのだが、それは全くの勘違いで蓮忍の言葉通り遮那王は重要な使いを任されていたのらしい。今更ながらどっと遮那王の全身から汗が噴出してくる。弁慶を探す事ばかりに気を取られていたが無事にここまで辿り着けた事に遮那王は改めて心の底から安堵した。
「牛若。少し目を瞑っていろ」
覚日の手の中で薄く開かれた木箱の蓋が更に大きく開けられ遮那王は慌ててきつく目を瞑った。
牛若、と重々しい声で覚日に名を呼ばれ返事をした拍子に遮那王の口の中に何かがころりと転がり込む。驚いてぱかりと目を開けた遮那王が思わずそれを噛み締めると口内にじわりと甘味が広がる。
「ははは!!俺の好物だ。牛若、お前にも半分くれてやる」
そう言いながら覚日は木箱の中身を無造作に鷲掴むとばらばらと遮那王の膝の上に中身をばら撒く。遮那王は慌てて両手を差し出すがほとんどが掌から零れ、それは磨き上げられた板の間に転がった。
「く、栗!!」
今度こそ遮那王の全身から一切の力が抜けた。
それは天日に干された栗だった。
これでは、これでは本当に子供の使いではないか。蓮忍ももう少し格好のつくような使い物を渡してくれればよかったものを。
二人のやり取りを一部始終目にして、幸西はにこやかに笑っている。恥ずかしくて遮那王の頬は一気に火照った。
「ほほほ、用向きが済んで何よりでございました。牛若・・・様もおつかれでしょう。母屋に夕餉の支度がしてございます、こちらへ」
幸西の案内に従い、遮那王と覚日は離れから母屋へ向かった。
覚日がしつこく笑う傍らで、遮那王は何も言い返せないまま大人しくもらった栗を袖の中にしまいこむ。遮那王には師が三人おり、剣の師、学問の師、そして目の前の覚日が野山での遊びを学んだ師である。鞍馬山に来たばかりで心細い思いを常に抱えていた遮那王はかなり覚日の明るさに救われた。大きくなった遮那王が昔のように野山で時間を忘れて遊ぶ事はもう無いが、覚日は今でも頭の上がらない師の一人なのだった。
昔と少しも変わらない師の隣で久しぶりに楽しい心持ちになっていた遮那王だったが、聞きなれたもう一つの声が耳に飛び込んできて文字通りその場で飛び上がった。
「幸西様」
ここ数日、聞きたくて仕方がなかった耳に心地良い柔らかな声音を聞き間違うはずは無い。
とりあえず今夜は身体を休めて、明日あちこちを探してみようと思っていた。それが思いもよらず、比叡山を訪れただけで出会えるとは。
「弁慶!!」
名を呼ばれた弁慶はもちろん、遮那王を挟んで両隣に立っていた覚日と幸西も驚いたように僅かに眉を持ち上げた。
「弁慶・・・!!」
どれほどに時間がかかるかわからないが探し出したいと願っていた人物が向こうからやって来て、感極まった遮那王は弁慶の名を呼ぶ事しか出来ない。
「牛若様、この者とお知り合いでしたか?」
幸西の問いかけに遮那王は答える余裕は無い。
この場に弁慶と二人きりではないというのに、なぜ会いに来てくれなくなったのか、会えなくなった理由が何かあるのか、遮那王は今すぐに弁慶に問い詰めたくて仕方がなかった。
その弁慶は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに平素の表情に戻り竹篭を脇に抱えたまま遮那王達に向かい歩いてくる。
「幸西様、頼まれていた物です。いつもの場所に運んでおきますので」
「おお、これは助かります。もし、時間があればすぐに使えるように手を加えておいて欲しいのですが」
「わかりました」
弁慶は話をする間全く遮那王を見ようとしなかった。
人当たりの良い笑みを顔に張り付かせたままで、弁慶は遮那王が立ち入れない話を幸西と続ける。
つんと鼻をつく強い香りには覚えがあった。弁慶が以前、手当ての時に足に塗ってくれた薬の匂いが竹篭の青々とした草から立ち昇ってくる。
完璧なまでに遮那王を無視している目の前の人物は確かに弁慶なのだ。
あれほどに遮那王が会いたいと思った弁慶は遮那王に一言も声をかける事なく、幸西と覚日に一礼してその場を後にした。
「おい・・・。牛若」
気遣わしげに覚日が声をかけるまで遮那王は足が地に張り付いたようにその場に立ち尽くしていた。
その覚日の声で遮那王は弾かれたように一歩を踏み出す。
「牛若!」
「すぐに、すぐに戻ります!!」
着いたばかりで勝手のわからない境内を、ただひたすらに弁慶の背中を追いかけて遮那王は駆け出した。
どうして知らない振りをするのか。
何か今までの事に一言あってもいいはずだ。それとも弁慶のこの場所での立場が先程の態度をとらせたのか。
それならそうと訳を話して欲しい。
もしくは、弁慶の中で遮那王の存在など取るに足らないものだったのだろうか。
会いに来たのは迷惑だったのだろうか。会いたかったのは遮那王だけだったのか。
不安や、怖れ、憤りが混沌として遮那王の心の中に渦巻く。
「弁慶っ・・・!!」
遮那王の声に振り返った弁慶の、見たことも無い冷ややかな視線に遮那王の心臓は大きく跳ねた。
それから、
「君には、会いたくありませんでした」
続く弁慶の言葉は深く遮那王の胸に突き刺さった。