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青龍寺の境内の一角に簡素ながらもしっかりとした造りの小屋がある。
小屋の中は、半分は一段高くなった板の間が敷かれ、残りの半分は土間になっている。その土間には薬草が入れられたままの籠が重なるようにして置かれている。
清涼感を伴った濃い草の匂いが覚日の鼻をくすぐり、それをやり過ごすように覚日は鼻頭に皺を寄せた。
小屋の主は覚日の存在に気付きながらも顔を上げずひたすらに薬草をすり鉢で潰す作業を繰り返している。
ここで覚日が声をかけるよりも前に愛想よく挨拶など出来ればもう少し周りの者達を本人が思い描くように欺ききれるだろうが、こうして感情に任せ頑なに覚日を無視してしまう辺り、弁慶もまだ子供だ。
柔和な笑みを端正な顔に浮かべられれば大抵の人間は騙されるが、弁慶という青年は人当たりの良い顔の裏でなかなかに難しい凝りを抱えていると、初めて会った時から覚日は思っていた。
「おおい」
覚日の呼びかけに微塵も反応を示さずに弁慶は黙々と匂い立つ青い葉を擂粉木で砕き続ける。
「あんまり、あれを苛めてくれるなよ。泣いていたぞ」
一時弁慶の手が止まったが再び規則正しいすり鉢を擦る音がし始める。
どうしたもんか、と覚日は己のまばらな無精ひげを二度三度擦る。
自分にも覚えがあるが、年長者の言葉などこの年の頃の者は聞きもしないのだ。
良かれと思っての年上の者の助言を鼻で笑い、実際に己の身で過ちを犯して初めて言う通りにすべきだったと後悔する。
まあ実際、覚日も数え切れないほどの後悔を味わいそれなりの経験を積んできたのだが。
果たして、この青年が意固地にしがみ付こうとしている過ちは一度の後悔で取り返しが付く物かどうか。
覚日はニ、三度口を開け閉めしたが旨い事は浮かばない。
「なあ、おい」
弁慶は取り付く島もない。覚日が小屋の戸口に立ってから全く姿勢を崩さず休む事無く薬草を磨り潰していく。
「この、糞餓鬼」
すました弁慶の横顔を辛抱強く眺めていた覚日だったが、唐突に忍耐の限界が来た。
他人のいざこざに当人以外の人間が口を挟めばますますややこしくなるのが世の常だ。だいたい、覚日は決して世話焼きな性質ではない。
普段であればこんな面倒くさい、他人同士の拗れた仲を取り持つようなことなどしない。
だが弁慶を追っていった牛若丸、遮那王が大きな瞳に膜張る涙が零れるを堪えながら戻って来るのを見れば、自分の腰ほどの背丈しかない頃から遮那王を見守ってきた覚日としては気が気ではない。
夜の厠が怖いとべそをかく遮那王の手を引いてやった事など、昨日の事のように思い出せる。とにかく覚日は遮那王が可愛くてならない。だから遮那王を泣かせる弁慶が憎くないといえば嘘になる。
「おれはお前みたいなな、本心を隠して相手を手玉に取った気になっている馬鹿が大嫌いなんだぜ」
「何の事でしょう。覚日様、戯れのお相手ならば僕よりももっと面白い人間が世の中にはたくさん居ますよ」
話が遮那王からそれると、弁慶はおもむろに顔を上げ覚日を見た。
瞳が綺麗な弓なりになっている。お得意の柔和な弁慶の笑みだ。
それが他の者との一線を保つための顔だと覚日はとうに見抜いている。そうして笑んで見せて、これ以上踏み入るなと弁慶は周りの人間を暗に拒んでいる。
遮那王ほど真っ直ぐすぎてもそれはそれで心配の種が尽きないが、弁慶ほど屈折しているのも痛々しいと思えなくもない。もう少し肩の力を抜いて周りを受け入れれば楽になるものを。
「俺も年食ったもんだぜ」
柄にもなく、かなり懸命に節介をしている自分に苦笑する覚日を見て弁慶は不思議そうに首をかしげる。
「とにかく、あいつだけは泣かせてくれるなよ。それが守れないってんなら、もうあいつの前に顔を出すな。わかったな」
「・・・勝手な事を仰る」
口調は静かながらも弁慶の瞳に隠し切れない怒りの色が滲むのを覚日は興味深く眺めた。
「呼びもしないのにここまでやって来たのは遮那王でしょう。だいたい、僕にはここで山ほど学ばなければいけない事がある。遮那王一人にかまけていられるほど僕は暇ではないのです。幸西様といい、あなたといい、二言目には遮那王遮那王と・・・何か?」
呆けたように口を開けたままの覚日に弁慶は怪訝な顔をする。
「はあ、遮那王、ねえ」
ふんふんと頷きながら、一人納得した様子の覚日に弁慶は苛立ったように眉間に皺を寄せた。
「何か?」
「いやあ、あいつも懐いたもんだと思ってな」
話が見えない弁慶の眉間の皺は更に深くなる。
先程までの攻撃的な空気はなりを潜め、覚日は最初に戸口に立った時と同じようにのんびりとした佇まいで弁慶を改めて見た。
「遮那王はな、一晩と鞍馬山から離れた事がない。七つで山に来た時からずっとな。それこそ来たばかりの頃は寺に篭りきりで、じっと母君の迎えを待つ事だけが心の拠り所だったんだぜ。毎日ぴいぴい泣き通しでな。一回り大きくなった今も、何となく鞍馬山から離れるのは心細かったんだろうな。それがどうした。何を思い立ってか鞍馬山を降りて比叡までやって来やがった。これはあいつにとってはよっぽどの事なんだぜ」
どうして母と、兄弟と離されて自分一人が鞍馬山に連れてこられたのか。自分が何者かすら知らない遮那王の心の寄る辺は母と最後に別れた鞍馬寺しかなかった。毘盧遮那仏の名には傍に居られぬ母の遮那王への情愛が込められている事も知らない。身を守るために遮那王には何も知らせてくれるなと、蓮忍と覚日はあの儚く美しい人から頼まれたのだから。
「一ついい事を教えてやる。あいつはなあ、人には牛若丸と名乗れと口酸っぱく言われていた筈だぜ」
誰から、とは言わないが。
ふと目の前の弁慶と涼しげな顔であっさりと鞍馬山を掌握している蓮忍の顔が重なった。弁慶はあと十年もしたら今よりも手が付けられないほどに食えない男になるだろう。蓮忍のような男がもう一人増えるのかと思うといささか覚日は気が重くなった。
「・・・遮那王は、会って間もなく僕にその名を教えてくれましたが」
「まあ、自分が大切だと思う、信頼できる相手を除いてな。遮那王はよっぽどお前が気に入ったんだろうよ」
軽く鬱屈してしまい、八つ当たり気味で覚日は遮那王の胸の内を弁慶にぶつけてやった。
弁慶はというと、意外やうっすらと頬に赤味が差している。それは覚日でなければ気付けないだろう微かな変化だったが。
「可愛い所もあるじゃねえか!」
覚日が豪快に笑うと弁慶は最早態度を取り繕うともせず、内心の動揺を気取られた悔しさも相まって思い切り覚日を睨みつけてきた。
それが更に覚日の笑いを誘う。
「ははは、俺はお前の事が好きになったぜ」
「僕は嫌いです」
にべもない弁慶の態度もこうなっては痛くも痒くもない。
「俺はもう行く。結局は俺が何を言おうがこういった事は当人同士の問題だ。こんな喧嘩一つで切れちまうような縁なら、もとからお前と遮那王はそれだけの縁だったんだろうよ」
「喧嘩・・・」
「その通りだろうが。しかもお前が一方的に吹っ掛けた餓鬼の喧嘩だ。あんなまだまだ乳臭い餓鬼に喧嘩吹っ掛けるなんざ、お前も相当の餓鬼だな。何だか知らないが遮那王に八つ当たりすんじゃねえよ」
自分の事を棚に上げて覚日は言う。餓鬼餓鬼と連呼されてこれ以上にないほど弁慶の目は据わっている。
「邪魔したな」
言いたいことを言うと来た時と同じようにふらりと覚日は小屋を出て行った。
「勝手な事を言う」
怒りが収まらないのは弁慶だ。
だがこれほどに腹が立つのは覚日に本当の事を言い当てられたからだと弁慶は分かっている。
これまで生きてきて、世の中には自分の力の及ばない思い通りにならないこともあると、諦めることを覚えてから世を達観した気になっていた。
だが、遮那王がそんな弁慶の心を波立たせる。
八つ当たりだと分かっているが挫折を知らない遮那王の真っ直ぐさが鼻に付く。
自分の感情を上手く抑えられなかった事で、そうさせた遮那王に更に苛立ちが募る。
遮那王の事ばかり考えていたからか、自分の名を呼ぶ遮那王の声が聞こえた気がした。まさかここに居る筈がない。
五条大橋の下に弁慶が通っている事は幸西にしか知らせていない。その幸西には誰にも言わぬようにと頼んである。
この橋の下には都から流れてきた人々のほかにも素性の知れない者達が大勢紛れていて物騒だと幸西も良く分かっている。だから幸西がこの場所を遮那王に教える事はない。
ありえない事を打ち消すように足元から面を上げた弁慶の視界に、色の無い薄汚れた茶色一辺の世界の中から突然鮮やかな色彩が飛び込んできた。
「弁慶!」
「・・・何を、考えているんですか!」
涼やかな薄青の水干を纏い、鮮やかな朱色の菊綴を揺らしてこちらに駆けてくる遮那王をしかと目に捉えた弁慶は思わず声を荒げた。それは幸西に対しての言葉だったのだが遮那王に分かる筈もない。遮那王は怯えた様に弁慶から数歩手前で立ち竦んでしまった。
弁慶は慌てて川原端に干されていた誰の物とも知れない粗末な直垂を掴むと硬直したまま遮那王をくるりと包み込む。辺りを見回すと幸いにも人影は無かった。
こんな裕福な貴族の子供のような格好をして一人歩きする遮那王など、よからぬ者の目に留まればすぐさま身包み剥がされてしまうだろう。その上見目の美しい遮那王の事だ、それだけでは済まないかもしれない。悪ければどこぞの稚児趣味のある者に売り飛ばされるか、自分の想像に弁慶の背中をぞくりと悪寒が這い上がってきた。
今日の予定は切り上げて弁慶はそのまま遮那王を連れて大橋を後にした。
大股で歩く弁慶に引き摺られて途中から遮那王の足は縺れがちになったが弁慶は足を緩めなかった。
鞍馬山と比叡山のちょうど分かれ道で弁慶は遮那王の腕をやっと離す。半ば駆け足でここまでやって来たが、普段と変わらぬ様子の弁慶に比べて遮那王は息がすっかり上がり、手を離されたと同時に道端の草叢に座り込んでしまった。
元服もとっくに済んでいる歳であるのに遮那王の身体は細く弁慶と比べても全く身体が出来上がっていない。声変わりすらまだなのだ。
遮那王は身も心も幼い。その事を目の当たりにすると自分は何とも大人気ない事をしてしまったと、改めて弁慶の胸の内を苦い物が占めた。
「あの場所がどういった所か分かっているのですか」
静かな弁慶の声に遮那王は無言で首を竦める。最初に怒鳴った事で酷く怯えさせてしまったようだ。
遮那王の大きな目は、声を荒げ乱暴に手を引いた弁慶を責めるように潤んでいる。
「さあ、このまま鞍馬山にお帰りなさい。幸西様と覚日様には私から話しておきます。大橋の袂も、比叡山も、君が来る場所ではないのですよ」
とうとう遮那王の双眸からは涙が零れ始めた。
こうして心の構えも無く素直に涙を落とす遮那王に対して、弁慶は再び複雑な想いを抱く。
「弁慶は、俺の事が、嫌いになったのか」
嗚咽を堪えながら遮那王は必死に弁慶に問うてくる。
夏の強い日差しに反射してきらきらと零れ落ちる遮那王の涙は美しかった。興奮した遮那王の頬には濃い赤が差し、それがしみ一つ無い白い肌をいっそう際立たせている。
「何か、怒らせたなら、謝るから。弁慶を、もう怒らせたりしない、からっ・・」
嗚咽を堪えきれなくなり小さく唸りながら遮那王は俯く。いつの間にやら遮那王は弁慶の衣の端をしっかりと掴んでいた。
悲しみに打ちひしがれている遮那王の前に弁慶の自分勝手な憤りなど溶けるように消えてしまった。
「遮那王、顔を上げてください」
亜麻色の豊かな髪がきちんと結い上げられた丸い頭部に手を置いてその熱さに弁慶は驚いた。
「遮那王?」
急いで屈み込んで両手で顔を持ち上げるようにして遮那王の頬に手を添えると、その顔も熱を持っている。
「目が回る」
薄ぼんやりと開かれた目が弁慶を見てすぐに閉じられる。目を閉じたと同時にぐらりと弁慶の腕の中に遮那王の身体が傾いだ。
遮那王の全身が熱を帯びてのぼせた様になっている。笠も被らず炎天下の中歩き通しで大橋まで来たのだろう。きっとろくに水も飲まずに。
「無茶をして」
そうさせたのは自分だ。青龍寺にやってきた遮那王を徹底的に避け続けた。本当に遮那王を遠ざけたいのなら最初に会ったその日に適当に理由を付けて遮那王を帰してしまえば良かったのだ。思わせぶりに避け続けて自分を追いかける遮那王の姿を楽しんではいなかったか。
自分の心の浅ましさに弁慶は大きな溜息を零す。
「済まない・・・」
叱ったつもりではないのに謝る遮那王に切なさが増す。
遮那王は幼い。そして心は驚くほどに無垢だ。
だから遮那王の傍に居るのが段々と自分は辛くなる。
「とにかく身体を冷やさないと」
腕の中でぐったりと力を無くしている遮那王をそのまま抱き上げて、弁慶は近くに小川の流れる良く葉の茂った大樹の陰へと運んだ。
竹筒に小川の水を何度も汲みそれを遮那王に与える。水を充分に飲ませてから冷水に浸した布を遮那王の額に乗せた。
ほうと、満足したような吐息を遮那王が吐き出す。
真昼をしばらく過ぎて、日差しはだいぶ和らぎ始めていた。