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受付所はアカデミーに隣接しているが、アカデミー自体にはカカシは縁が無い。
訳もなく立ち寄ったのは偶然にでもイルカに会えないかと思ったからだ。
その日カカシは監督任務もなく、上忍としての任務も入っておらず丸一日休みだった。
イルカの都合に今日ならこちらは完全に合わせる事ができる。久しぶりに一緒に夕飯でもと考えた。
一般にも開放されている校庭を突っ切り校舎に足を向けると進行方向と真逆から微かに探し人の声が聞こえて、カカシはなんの躊躇いも無くそちらに足を反転させた。
イルカは自分の姿を認めれば、何を置いてもこちらに駆け寄ってきてくれる。
久しぶりに酒にでも誘ったらイルカはいつものあの笑顔で喜んでくれるだろう。
そう考えるだけで自分の顔が柔らかく綻んでいくのをカカシは感じた。
しかし、アカデミーの中庭に踏み込もうとしてカカシの足はそのまま固まった。
話し声が聞こえる、ということは当然にイルカは一人ではなかったのだが、その相手は長い栗色の髪が美しい一人の女だった。
里の標準服を着ていることから女は中忍以上の階級だ。
音として二人の声はカカシの耳に届くが、その会話の内容までは分からない。
カカシに対してイルカは真横を向いている。
思わず一切の気配を断ってカカシは物陰に身を潜めた。
イルカの横顔を女はカカシに背を向けて間近から見上げていた。
自分とさほど背丈の変わらないイルカは時折目線だけを女の方に向ける。
頭一つ分ほども背の低い相手を時折イルカは見下げる。
腕組をしながら柔らかくイルカは微笑んでいた。
組んだイルカの腕に女が軽く自分の腕を絡ませると、イルカは女を見る事は無かったがその甘えた素振りに対して口角を引き上げ笑みを深くする。
二人の親密な様子からしてもただの同僚などではない。
近く結婚をするといっていた、たぶんその相手だ。
胸が圧迫されてどうしてか上手く息が吸えない。その息苦しさは増すばかりだ。
はたして今、イルカがカカシの姿を認めてもイルカの中で優先されるのは女とカカシ、一体どちらなのか。
そんな事は考えるまでも無いだろう。
ぐらりとカカシの視界が回る。
急激な酩酊感に襲われて嘔吐する前にカカシはその場を離れた。
黄色い胃液を人影のない校舎の裏手で吐き出す。
吐き気に襲われても胃は空で、食道を胃液が焼く不快感にカカシは顔を顰めた。
この頃は丸薬や携帯食だけで熱量を摂取していた。まともに食事をしたのはイルカと最後に夕食をともにしたあの晩が最後だ。
もともと任務を離れた平時でもカカシは食の欲求が乏しく、里内ではイルカに誘われでもしなければまともな食事を取ろうとしなかった。
イルカと知り合う以前であれば体調管理のため食欲があろうが無かろうが体力維持に最低限必要な食料は自ら摂取していたというのに。
忍としての自己管理を失念してしまうほどに、いつの間にか里での生活はイルカ中心に回っていた。
あの後も全くイルカと会えなかった訳ではない。
だが、すれ違いざまに言葉を交わすだけでは到底足りない。
湧き起こる衝動の正体が分かり、カカシは地に膝をつき震えを抑えるように自分の身体を抱きしめた。
女の前でイルカは、カカシが見た事も無い雄の顔をしていた。
イルカが心から愛しているのはあの女だ。
あの女はイルカのただ一つの絶対の愛を受け取る資格のある人間なのだ。
二人の繋がりは強固で、傍から見ても揺らぐ事など考えられない。
あの、イルカの静かで慈愛に満ちた深い微笑。
痛いくらいに思い知らされた。
自分に向けられるイルカの笑顔は、はたけカカシに対してのものではなく、名が売れた忍に対してのたんなる憧憬の念が現れた物でしかない。
それでもカカシはイルカに慕われる事が心地良いと思った。
その真っ直ぐな好意を返すかのようにカカシもイルカを好ましく思った。
その時にはもう引き返せないほどに深みに嵌っていた。
恋だったのだ。
想いを告げる事すら出来ない、叶う事のない恋だ。
イルカはカカシの本当の姿を見ようとはしなかった。
カカシもイルカに本当の姿を見せようとしなかった。
幻滅されぬよう自分を偽り、イルカが望む振る舞いをしてきたのは他ならぬ自分だ。
上辺だけの友人ごっこで浮ついていた自分はなんと愚かなのだろう。
もうイルカと笑って同じ時を過ごすことなど出来ない。
突然に形を成した想いに激しく心を乱されながらも、カカシの中ではその事だけははっきりとしていた。
「カカシ先生!」
カカシは足を止めてゆっくりと振り返る。
イルカがこちらに向かって駆けてくる。結わえた髪が上下に弾む。
カカシの隣に追いついたイルカは、呼び止めたもののなかなか口を開こうとしない。
「そんなに急いで、何かありましたか」
普段と変わらない様子で、カカシは意識をして柔らかい声音を出す。
イルカの表情には僅かに緊張が漂っている。
「あの・・・カカシ先生の姿が見えたので・・・」
「ええ、今監督任務が終わったんですよ。イルカ先生はまだ仕事終わっていないでしょう?」
「はい、でも。もう少しで終わるんで・・・」
「なら早く帰らないと。可愛い恋人が待っていますよ?」
カカシの言葉を受けて途端にイルカの表情が曇る。
「なに、どうしたの?マリッジブルー?」
「そ、そんなんじゃ・・・」
「式が終わって落ち着いたら、また飯でも食いに行きましょう」
ぽんぽんと、宥めるようにイルカの肩を叩く。
「はい・・・」
「それじゃ、また」
物言いたげなイルカを残して、カカシは足早にその場を離れた。
きっとイルカは動く事も出来ずに自分の背中を見つめ続けているだろう。
今までと変わらずに言葉だけは交わして、イルカと共有の時間を持つことは拒絶してやんわりと突き放す。
自分の拒絶をはっきりと感じ取り傷ついた表情を見せるイルカを見てカカシは暗い愉悦に浸る。
どんな形であれ、イルカはまだ自分に歩み寄ろうとしてくれているのだと。
心の中はイルカに純粋に焦がれる想いと、女に対する嫉妬と、獣のような浅ましい執着とがせめぎ合っている。
その全てが本当のカカシだ。
生身のはたけカカシと言う男はこんなにも醜い。
カカシは自分の想いをイルカから隠し通したいとも思うし、いっそ全てをぶちまけて壊してしまいたい衝動にも駆られる。
その衝動の波を制御するのが日に日に難しくなっていた。自分の想いを押し隠してイルカに笑いかける事ももう難しい。
理性の箍が外れる前にイルカの前から姿を消さなければ。
そのタイミングだけをカカシは自分でも驚くほど冷静に計っていた。
子供達の育成任務の放棄を里が認めてくれるのかが問題だったが、それと引き換えになるほどの難度の高い里外の任務なら他にいくらでもあるだろう。
子供達の進むべき道を指し示してやるのは自分でなくともいい。
むしろ自分ではないほうが良い。
自分の感情を制御しきれずに任務を放棄するのだ。そんな忍がどのような道を子供達に指し示す事が出来るのか。
今は任務に就く以外、カカシは殺風景な自室に引き篭もっている。
イルカに会わない為だけに。
明けても暮れてもイルカの事だけを考えているというのに。
生まれて初めての恋は、恋と呼ぶにはあまりにも凶暴で心の内で荒れ狂うそれをカカシは宥める術を持たない。
毎日じっと部屋の角で膝を抱え、カカシは自分の感情を殺そうと試みる。
しかし自分の想いに向き合えばそれだけイルカに対する執着は煽られる一方だった。
だから、想いが嵩じすぎて幻覚でも見ているのかと思った。
「カカシ、先生・・・・」
いつも浮かべている、はにかんだような微笑みは無い。
カカシの尋常ならざる様子にイルカは玄関口で顔と身体を強張らせたまま、それから声すら発する事が出来ずにいる。
どうして、会いに来てしまったんだ。
歓喜と絶望が同じ勢いでカカシの中でせり上がる。
イルカに向かって伸びていく己の腕を、まるで他人事のようにカカシは眺めていた。
怯えたように見開かれた漆黒の瞳は、いつまでもカカシの脳裏に焼き付いて離れなかった。