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情の深い人だから、甘えてしまった。
カカシは期限が刻一刻と近付きながらも、イルカから離れられずにいた。
この事をイルカが知れば、里に正面切って刃向かうかもしれない。
三ヶ月経過してなお視力が回復しない場合、写輪眼を摘出し里へ返還する事。
病院から家に帰ってすぐに、上層部に名を連ねる者達がカカシの元を訪れた。
その時イルカは丁度居なかった。
居ない時を狙ったに違いなかったが。
「お前の身体はともかく、その目は里の復興にこれからも役に立つ」
三代目火影は清廉潔癖な人で、他里の隠れ里に比べて忍達の扱いも手厚く、非人道的な事は一切なかった。
それでも奇麗事だけでは忍の世界は回らないこともカカシはわかってはいた。
だが、こうして面と向かって捨て駒のように言い切られた事にさすがのカカシも衝撃を受けた。
里の上層部の統一がまだされておらず、非常に不安定になっている。
五代目火影が就任するも、まだ綱手の力は上層部全体を抑え込めてはいない。
この上層部の者達の言いようは、とても綱手を通してのものとは思えない。
綱手の人となりを知っているカカシであれば余計に、里の意志であると言い切る男達のことなど到底信じられなかった。
だが、現時点で綱手は里を離れている。
帰還はいつになるかわからず、その里からの達しという内容の真偽を確かめようが無い。
本当に里の意志か、不穏分子の独断の暴走か。
それはどちらでもあまり変わりの無い事で、里の復興のためという大義名分を手に入れた男達にカカシが反論する余地も、抵抗する余地も無かった。
写輪眼摘出、それだけで済むはずも無いだろう。
写輪眼を摘出した後、その写輪眼の適合体を探る鍵。
それはカカシの身体そのものだ。
視力を失ったあと、忍としての働きを望めないカカシの身体は細かく調べられ、切り刻まれてしまうだろう。
そして、そう遠くない日に、慰霊碑に名を連ねることになるのだ。
名が石碑に刻まれるのが先か、綱手の帰還が先か。
間に合わなければそれも運命だが、気がかりなのはイルカの事だった。
あの正義感溢れる人は、自分が道具のように打ち捨てられる事を許せないだろう。
馬鹿正直に面と向かって里の上層部に抗議をするに違いない。
綱手の力が行き渡っていない状態で、正しい政が行なわれるかは保証がない。
当の綱手が不在なら、なおのこと。
いくら正面から正論を唱えても、受け入れられる事は無いだろう。
最悪、自分もろともイルカまで存在を抹消されてしまうかもしれない。
目の見えない自分はイルカの身を危うくするだけだ。
暗い思考のループは果てがなく、一筋の光も見えなかった。
「別れてくれませんか」
イルカを守る術は他に思い浮かばなかった。
カカシの中には、すでに光は無く。
一人闇の中にいた。
数日前から光の明暗も分からなくなっていた。
回復への望みは客観的に見ても薄い。
三日以内に、イルカを遠ざけなければならない。
自分では最早、イルカを危険に晒すことはあっても、イルカを守ることは出来ないのだから。
「こんな役に立たなくなった忍に、付き合うことは無いんですよ」
半分は本心だった。
「あなたは、俺に縛られることなんか無い。自由に、何処へでも行けるんです」
イルカの心が波立ってきたのが、空気に乗って伝わる。
けれど、今は辛くても、こうする事が一番だから。
「義務感に駆られて時間を無駄にすることは無い。同情と愛情を取り違えないで」
言うなり、背中に衝撃が走った。
息が詰まる。
気が付けば、イルカに勢いよく押し倒されていた。
荒々しく。でも震える手で。
イルカはカカシの寝間着代わりの浴衣を剥ぎ取る。
カカシはイルカを制する事が出来なかった。
パタパタと自分の裸の胸に落ちる雫はイルカの涙に違いなかったから。
土壇場で、突き放すことも出来ない。
イルカを守りたいと思う。
でも、最後まで傍にいて欲しいとも。
醜いエゴと分かっているから、願いを口にすることは憚られた。
イルカはカカシの首筋に噛み付いてきた。
普段にない荒々しさでイルカはカカシに愛撫を加える。
怒りと、悲しみと、絶望と。
混沌とした感情がイルカからは伝わってくる。
イルカの感じる痛みを少しでも和らげてやりたくて、カカシは自分に覆い被さるイルカの頭を何度も撫でた。
「言っていることと、やっている事が違います・・・・」
「・・・ごめんなさい」
言葉では突き放そうとしているクセに、身体がイルカを離そうとしない。
イルカにそのことを指摘されたのだ。
イルカは口先だけの言葉で騙されたりはしてくれない。
カカシは諦めてイルカの背中に両腕を回してきつく抱きしめた。
「カカシさん。俺はあなたのためなら死んでもいいって、本気で思っているんです」
「・・・そんな事、言わないで」
「でも、カカシさんは一人で死のうとしていたでしょう」
イルカにそう責められれば、カカシは何も言えなかった。
「俺には、一人で生きろというんですか」
以前、戯れに聞かれた事があった。
俺が死んだらどうしますか、と。
忍として生きる二人にとって、その質問はほんの戯れだと言い切るには胸が痛むものだった。
後を追いますと即答したカカシに、イルカはなんとも言えない表情を見せた。
感情を表に出すのを躊躇うような。
そんなこと、絶対にいけません、と。
俯いたままポツリと呟いたイルカは、本当は嬉しかったのかもしれない。
あくまでも仮定として話題にする事が出来たあの頃は、なんて平和だったのだろうかと思う。
俺の分まで生きて、と。後を追うことは許さないと。
そうお互いに言ってみた所で。
いざという時はお互いが即座に後を追うと分かっている。
自分とは違い、イルカは人とのつながりを大事にする。
それでも、同僚達や、教え子達のことや、切り離す事が辛いものを両手に抱えながらも最後は自分だけを選んでくれるというのか。
二人で死を選ぶという事はカカシにとって抗いがたい甘美な毒のようなものだった。
突然パチリと、カカシはイルカに両の頬を両手で叩かれた。
暗い思考の海に沈みこんでいたカカシはハッと息を呑んだ。
包帯に遮られて目は見えないというのに、イルカはぐいと多分自分に向けるようにカカシの顔を動かす。
「何を諦めようとしているんですか」
イルカの言葉にカカシは急速に現実に引き戻される。
「あなたが死んだら、俺は躊躇う事なく後を追います。でも、俺は元来生き汚いんです。二人で死ぬよりも、二人で生き延びる方がずっといい」
長い間カカシの頭の中に留まっていた濃い霧が瞬く間に晴れていく。
ああ、とカカシは飲み込んだ息を吐き出した。
イルカは自分よりもずっとしなやかで強い。
そうだった。
こうしていつも、イルカは死への想いに捕われそうになるカカシを少し強引に明るく真っ直ぐな道へ引き戻してくれるのだ。
「綱手様に式を飛ばします。綱手様がご帰還されるまで、俺達は逃げます」
簡単に逃げるというが、容易い事ではない。
部屋の外では常に暗部が目を光らせている。
カカシの警護とは表向きの話で、監視をしているのだろう。
写輪眼を狙う上層部の人間達の息がかかっているのは明らかだ。
「影分身を置けば数日は時間を稼げるはず。敵も昨日の今日で逃げ出すとは思っていないでしょう。逃げ出すなら期限の前日だと油断していると思います」
整然と策を立てていくイルカを前にカカシは思わず口元が綻ぶ。
「イルカ先生。かっこ良い」
「真面目に聞いてください。俺一人では逃げ切れないんですから」
「うん、ごめん」
少しの沈黙の後、イルカは裸のカカシの胸に頬をすり寄せてきた。
「・・・戻ってきてくれて良かった・・」
前を向くことをせずに諦めきっていた自分は、さぞイルカに辛い思いをさせていただろう。
「うん、ごめんね」
ただいま、と。
言葉が継いで出てしまった。
ピントがずれた事を言う自分を、イルカが笑う。
心地よく震えるイルカの喉の振動がカカシに伝わる。
こんな他愛もない、でも愛しくて仕方の無いやり取りを、これからもイルカと重ねていきたいとカカシは強く思った。
その途端、突然に。
カカシの中で八方塞の暗闇の中に一条の光が射した。
「うん、生きよう」
噛み締めるように、カカシが宣言した。