6
夕暮れの赤がすっかり深い闇に呑み込まれたころ。
カカシの家の周囲を囲む空気が一変した。
ぞくりとイルカの背中一面に鳥肌が立つ。
「カカシ先生・・・」
「うん、イルカ先生。まだ普通にしていて」
イルカから手渡された湯飲みを掌に包んだままカカシは穏やかに答えた。
「相手はもう、体裁を繕う事もしなくなりましたね。まともに殺気を当ててくる。思った以上に早かったな・・・」
カカシは立ち上がるとカリと親指に白い歯を立てた。
鮮血が台所の板張りの床に落ちる。
おもむろにしゃがみ込み、自らの血でカカシは放射状にさらさらと術式を記した。
バンと掌を式の中心に叩きつけると同時に勢いよく煙が上がった。
煙は瞬く間に晴れて、台所にはずらりとカカシの忍犬八匹が揃う。
「死ぬまで頑張らなくていい。少しの間足止めしてくれる?」
一匹一匹にカカシは語りかける。
忍犬たちは心得たとばかりに一様に頷くと勢い良く散開した。
「イルカ先生、おいで」
カカシは一度イルカの方を振り向くと口元に柔らかい笑みを浮かべて見せた。
イルカの体の強張りが瞬時に解けた。
カカシは確かな足取りで台所を後にする。
急激な事態の展開にカカシは全く動揺することも無い。
自分が守るつもりでいたのに、忍としての彼にはやはり到底敵わない。
カカシの忍としての誇りも自信も、未だ何一つ損なわれてはいない。
その事がイルカは嬉しかった。
イルカがカカシの後を追うと、カカシは階段下の小さな物置から中に詰まったものを次々に出していく。
ガラクタばかりが詰まった小さな物置はあっという間に空になり、コンクリで塗り固められた床が現れた。
その中心に物々しい鉄の扉が付いていた。
「よっと」
ガコンと音を響かせてカカシが扉を開ける。
その中はどこまでも闇が続いていた。
「抜け穴・・・」
「イルカ先生、これ履いて」
カカシはガラクタの中から手探りで上履きを二足取り出し一つをイルカに手渡す。
「話は後で」
カカシは迷う事無くするりと穴の中に身を滑り込ませた。
イルカもすぐさま後に続く。
鉄の扉の奥はどこまでも闇が続いていた。
ようやく目が慣れてくると自分が今歩いているのが、細い通路だと分かった。
ぴちゃんと、水が滴る音が聞こえる。地下水が染み出しているのか。
光が一切届かない地下でうっすらとカカシの背中が見えるのは光り苔が生えているかららしい。
土が剥き出した状態の通路は所々木材や鉄筋などで天井が補強されている。
明らかに人の手が加えられていた。
「いつからこんな抜け道が」
「家を買ったらこれが付いてきたんですよ。買うときには全く気付かなかったんだけど。元来どの家にも普通にこういった抜け道はあったんじゃないかな・・・・」
時代が悪かったから。
イルカに背中を向けたままカカシは淡々と言った。
軽く言ったようで、そのくせとても重いその言葉にイルカは何と言ってよいかわからずに黙っていた。
イルカがまだ親の庇護の下にあった頃、カカシは既に修羅の世界に身を置いていて。
その時代を生き延びて、カカシは本来自分のものでないもう一人分の人生をその左目に背負うようになったのだ。
歩き慣れているのか、すいすいとカカシは前を進む。
「ずいぶん進みましたけど、この通路はどこに続いているんですか」
「もうすぐ出口」
カカシの歩みが止まる。
シャラリと何か金属が擦れるような音がした。
「ちょっと待ってて」
金属音は天井から垂れ下がった鎖が擦れる音だった。
カカシは腕の力だけで鎖を手繰りどんどんと天井に向かっていく。
左掌にチャクラを高密度に練り、カカシはそれを一気に頭上に叩きつけた。
ガアンと通路いっぱいに重々しい音が響いた。
その後、イルカの頭上には柔らかな青い月光が降り注ぎ始める。
通路が外界に通じたのだ。
ぽっかりと四角く切り取られた星空からカカシがこちらを覗き込んでいる。
「イルカ先生、早く」
「はい!」
イルカは一息でカカシの隣に飛び上がった。
辺りを見回すと、そこは見慣れたアカデミーの裏にある小高い丘だった。
「こんなに遠くにまで」
感嘆の声を上げるイルカをカカシの声が現実に引き戻す。
「イルカ先生、もう余り時間が無いと思います。追い付かれる前にコハル様の所へ」
コハルは里の上層部において不可侵の存在だ。
もう第一線から退いてはいるが、その里全体への影響力は無視するには余りにも大きく、二代目、三代目からも信頼は厚かった。
コハルに対しては、相手も迂闊に手を出すことは出来まい。
綱手不在の今、下手に里外に脱出するよりはコハルに一時的に保護してもらうほうがはるかに安全だろう。
常識人で穏健派のコハルであれば事の真偽が確認できるまでは二人を快く匿ってくれるはずだ。
イルカが自分たちが抜け出た通路の入り口を元通りに戻す。
「さて。さすがに目が見えないと家の中と同じに動き回ることは出来ないな・・・。迷惑かけますがイルカ先生、道案内をよろしく」
カカシがイルカの右肩に左手を置く。
「こっちです」
イルカはカカシの様子を見ながら徐々に徒歩から疾走へとスピードを上げていく。
カカシはイルカの肩に触れるか触れないかの所に左手を固定したまま、普段と変わりない様子で危なげなく付いてくる。
アカデミーの裏山から、アカデミー関係者でなければ分からないような裏道を抜けて二人はコハルの邸宅へと急いだ。
あと少し、火影邸を真っ直ぐに見下ろせる所まで迫った時。
カカシが思い切りイルカの肩を後ろに引いた。
イルカの頭部があった空間に月光を反射して白く光る忍刀が思い切り振り下ろされた。
愕然としてイルカがカカシを振り返ると、カカシは既にイルカと背中合わせに臨戦態勢に入っている。
二人は四人の暗部に取り囲まれていた。
ビリビリと不穏なチャクラが肌に突き刺さってくる。
「何処に行く」
「ちょっと散歩」
鳥の面の男にカカシは飄々と答える。
「こんな夜更けに忽然と家から姿を消してか」
「俺は療養中の身だけど、行動まで制限されていないはずだよねぇ?」
カカシの言葉に答えず暗部は忍刀を構えなおす。
時間稼ぎの会話に乗るつもりは無いらしい。
カカシは軽く舌打ちをする。
今手元にある武器といえばイルカの忍服に装備されていた、起爆符、クナイが数本。
着のみ着のままで出てきたカカシの手元には何も無い。
しかし、今視力を失っているカカシにとっては武器が手元にあっても敵を確実に狙えない。
であれば忍術で短時間にけりをつける。それしかない。
「くっ!」
ギン、と金属がぶつかる音がした。
イルカはクナイを両手に構え暗部の強力な斬撃を受け止めた。
どうやらカカシの目であるイルカにターゲットは絞られたようだ。
暗部二人にイルカが持ち堪えられるのは僅かな時間だろう。
助けようにも、カカシの前にも間合いを計って残りの暗部二人がこちらに殺気を当ててくる。
ほんの少しでいい。
左目が使えたら。
カカシは両目を覆っていた包帯を毟り取った。
カッと宙に向かい目を見開く。
しかし、カカシに見えるのは何処までも続く闇だけだった。
「くそ・・・!!」
カカシの鼻先を血臭が掠めた。
イルカが出血したらしい。
次の瞬間カカシの頭の中は真っ白になった。
体内で膨大なチャクラが膨れ上がる。
「カカシ先生!!」
イルカの声で我に返ると、息を乱してカカシは立ち尽くしていた。
暗部の気配は消えている。
「イルカ先生、怪我は・・・」
「俺のはほんのかすり傷です。カカシ先生こそ大丈夫ですか」
「俺は・・・・、殺してしまった?」
正当防衛とはいえ、同朋を傷付けてしまったのかとカカシは顔色を無くす。
真っ白に血の気を失ったカカシの手の甲に、イルカはそっと自分の掌を重ねた。
「俺、雷切を始めて見ました。大丈夫です。まともに当たってはいないので電気ショックを受けたようなものでしょうか、全員気を失っています」
「良かった・・・」
「俺は大丈夫ですよ。ずっとカカシ先生の背中に張り付いていて、正面に立たなかったので。さあ、急ぎましょう」
イルカはカカシの手を再び自分の肩に導く。
再び二人は走り始める。
コハルの家が連なっている火影邸が見えた。
しかし、あと少しという所でイルカは身体を強張らせて立ち尽くした。
火影邸の正門前には数人の暗部を引き連れて今日の日中に会ったばかりの男が立ちはだかっていた。
緊張のあまり、イルカの口内は急激に乾く。
イルカの乱れたチャクラでカカシは何事か察知した。
イルカを庇う様に前に一歩、歩を進める。
「はたけカカシ。コハル殿に何用だ」
カカシには声音で相手が分かった。
「あんたの越権行為を訴えようと思ってさ」
先ほども攻撃を受け、今更だった。
腹を探り合う段階はとうに過ぎていた。
「ふん」
男は蔑む様に口元を歪ませる。
「里の至宝とまで言われた男が逆賊に成り下がるか」
「逆賊とは何をもって言われるのですか」
「五代目火影の決定に逆らい、里の復興に力を貸さぬ事は立派な反逆行為であろう」
眉一つ動かさずに男はイルカに言ってのける。
「捕らえろ」
男の指示に従い暗部が動く。
火影直属の部隊であるはずの暗部は男のいいなりになっている。
いったい、上層部のどこまでがこの男の手の内になっているのだ。
カカシは三人がかりで押さえ込まれ地面に膝を付いた。
イルカの首筋には研ぎ澄まされた忍刀がぴたりと当てられている。
とにかく、時間を稼ぎ、騒ぎを大きくしなければならない。
「綱手様は今、里に向かっている」
イルカの言葉を鼻で笑って男は一蹴する。
「五代目は今、火の国主に付き従って各国を飛び回っておられる。しばらくは里に帰ることは無い」
「俺が式を飛ばした。あんたが言う事は火影の意思なのか、それとも頭の狂った男が独断で暴走しているのか、どちらなのかお答えくださいとな」
「一介の忍風情が火影を動かせるなどと思い上がるな!!」
イルカがカカシを見やると、先程の戦闘でだいぶチャクラを消耗したのか大量に発汗し暗部に両脇を固められたまま息を荒げている。
自分ひとりではこの窮地を脱することはとても出来ないだろう。
「ここではまずい。身体を動かせない程度に痛めつけてその男も一緒に連れて行け」
ガツと鈍い音がして、口の中に鉄の味が広がる。
イルカは刀の柄で頬を殴られた。
ごく軽い動作に見えてその打撃は非常に重く、イルカは地面に倒れ付した。
その背中に一人の暗部が膝を押し付けイルカの動きを抑え込むと、後ろ手にイルカの腕を捻り上げる。
「・・・ッッ!!!」
ぎしぎしと骨が軋む。
意地でも声は漏らすまいと、イルカは切れた唇をさらに噛み締める。
「両腕と両足の骨を折れ」
「ほう、暗殺特殊部隊はいつから一民の私兵となった」
芯の通った落ち着いた声が響き、水を打ったかのようにその場はシンと静まり返った。
植え付けられた反射的な行動なのか、イルカとカカシを押さえつけていた暗部たちは次々とその手を離し膝をつき、綱手に向かって頭を垂れる。
「カザミ、なかなかどうして。お前は私よりも暗部を動かすのに長けているな。是非そのコツを教えて欲しいものだ」
「火影様・・・、ご冗談を・・・」
カザミと呼ばれたその男は先程までの態度と打って変わって、歯切れ悪く、震える声で綱手に答えた。
「カザミ、暗部は何者の配下にあるのだったかな」
「もちろん・・・火影様直属の部隊にございます・・・」
「鬼の居ぬ間に好きに出来るとでも思ったか、カザミよ!!」
ビクリと雷にでも打たれたかのようにカザミは身体を震わせた。
カザミは無言で頭を垂れることしか、もはや出来ない。
「この事だけでも査問会にかけられる理由は充分であろうな。それともう一つ」
綱手は初めてイルカとカカシの方を向く。
「イルカ、よく世話をし、守ってくれた」
主語は無くとも話は通じる。
イルカを見つめる綱手の瞳は深く穏やかだった。
その時になって、助かったのだとイルカはようやく実感できた。
後は綱手に任せればいい。
イルカはカカシの身体を支えてゆっくりと立ち上がった。
「いえ、俺は何の役にも立てませんでした」
「何を言う。カカシもお前も無事でいてくれた、それで充分だ」
綱手は再びカザミと向き合う。
「私は定例会において、はたけカカシを長期療養に入らせると上層部全体に言い渡したはずだが。これはどういう事だ。何をしようとしていた?申し開きがあるならば述べてみよ」
「・・・・今、里には力が必要にございます」
跪いて綱手を見上げながらも、カザミの目にはあやしい光が灯りはじめた。
「使えなくなった忍は切り捨てる。使える部品があれば付け替える。これ位に割り切らなければ、これからはどんどん他里に干渉されていきましょうぞ!私は先代にも散々申し上げてきたのだ!!私の考えに賛同してさえいれば砂などにつけ込まれる事も無かったのだ!!」
カザミは興奮のあまり、口角から泡を飛ばして綱手にまくし立てた。
「力に頼り、だから砂は足をすくわれたのだ」
綱手の静かな声にカザミは言葉を奪われる。。
「今の木の葉を見ろ。確かに表面上は傷ついているかもしれないが、内実はしなやかにどんどんその傷を癒し始めている。先代が自里の忍を我が子のように慈しんできたからだと思わぬか?捨て駒のように切り捨てられるのであれば、少なくとも私はその里に命をかけようなどと思いはしないがな」
「生温い事をっ!!」
顔を紅潮させカザミは吠えた。
カザミには綱手の言葉は届かない。
綱手は憐れみを込めてその男を見下ろした。
「綱手様」
いつの間に現れたのかシズネが綱手の傍らに控える。
「シズネ、早かったな。早速カカシの治療に当たってくれ」
シズネは静かに頷く。
「うみの中忍」
シズネがカカシを支えて立つイルカの傍に近寄る。
シズネの後ろには白い装束に身を包んだ人物が付き従っていた。
「解毒薬の成分が判明しました。この方は砂の里の医療忍です。今回協力してくださることになりました。はたけ上忍は・・・だいぶ体力も消耗しているようですね。火影邸にこのまま向かいましょう」
綱手はシズネがカカシとイルカを連れて自分の邸宅へと入っていくのを見届けた。
その後、良く通る声で綱手は言い放った。
「捕らえろ」
先程の立場と全く逆転し、綱手の指示のもとカザミは暗部に取り押さえられた。