いと つみぶかし 5
数日後、任務は滞りなく終了した。
今までなら何の感慨も無かった里への帰還も今回は気持ちが急いて仕方がない。
里を出てから一週間が経つ。
早くイルカに会いたい。
飛ぶように木々の間を走り抜けて里の大門をくぐり抜ける。一息に街中を疾走しイルカのアパートにたどり着いた時にはカカシの心臓は早鐘を鳴らしたようにうるさく鳴り響いていた。
ノックを二回。
「はい」
一週間ぶりに聞くイルカの心地よい声に全身が震える。
気配から真夜中の訪問者がカカシであることはイルカにも分かっているはずだ。
部屋の中でイルカのチャクラが揺らめきながら玄関に近付いて来るのをカカシは陶然として待っていた。
「カカシ先生?」
ドアを開けてひょこりとイルカが顔を出す。
もうカカシが見慣れてしまった柔らかい人好きする笑みをイルカは顔に浮かべる。
カカシの胸の中に暖かいものがこみ上げて来る。
「イルカ――・・・」
「こんな夜中に何か御用ですか?」
―――・・・え?
どくどくとうるさいほどに脈打っていたカカシの心臓は瞬時に凍りつく。
「ああ、忘れ物ですよね」
全身を硬直させて立ち尽くすカカシを他所に手のひらをぽんと拳で打ったイルカは部屋の奥に消えていく。再び姿を現したイルカの手には二本のクナイが握られていた。確かにそれはカカシの物だった。
「忍服を洗濯するときにホルスターから抜き取ってうっかりそのままにしてました。申し訳ありません」
カカシにクナイを手渡すとニコリとイルカは微笑む。
一週間前はカカシの心を暖かくさせたその笑顔が、今はイルカへ近付くことを阻む強固な壁のようにカカシには感じられた。
「それでは、俺明日早いんで失礼します。お休みなさい」
にこやかな笑みを絶やさないままイルカはドアの向こうに消えていった。
呆然と言葉を失ったままカカシはその場に立ち尽くしていた。
今のこの状況はどうしたことだろう。
イルカの部屋で数週間一緒に生活し、カカシとイルカはお互いの気持ちを確かめ合って、身体を繋げた。
その事がイルカの中からまるで綺麗さっぱり消え去ってしまったかのようだ。
カカシはもう、寝ても覚めてもイルカの事しか考えられないというのに。
こんなこと、到底カカシには受け入れることは出来ない。
「・・ッ!イルカ!イルカッ!!」
カカシは力の加減も出来ずに荒々しくイルカの部屋のドアを叩き続ける。
ドアは再び内側から開かれた。
「カカシ先生!?どうしたんです。近所迷惑ですよ」
今度は眉をひそめて顔を出したイルカをカカシは堪らずに胸の中に掻き抱いた。
がっちりと回されたカカシの両腕に囲われて、イルカは抵抗するでもなく大人しくしている。
「・・ねえ、イルカ。どうしちゃったの?俺のこと好きって言ったよね。俺もあんたの事が好きで好きでたまらない。だから真っ先にイルカに会いに来たんだよ・・・」
「・・・カカシ先生。それは錯覚なんですよ」
何を、言っている?
イルカの声はどこまでも穏やかだ。
カカシは自分の腕をほどきイルカの顔を覗き込む。イルカはまるで聞き分けの無い子供を諭すような、それでいて慈悲深い表情を湛えていて、かえってカカシは焦燥感に駆られる。
「体が弱っている時は自然と心の支えを必要とするものです。僅かな時間でもカカシ先生の支えになれたことは俺も嬉しかったです。でももう、カカシ先生は俺の事必要じゃないでしょう?」
「違う・・・違うよ!今だって俺はイルカの事が好きだよ」
「すぐに目が覚めますよ・・・」
やんわりとイルカから肩を押されて二人の間には距離が開く。カカシは全く強くもなかったイルカの力に抗えなかった。
「イルカ・・先生・・・・」
「おやすみなさい、カカシ先生」
閉じられたドアが今夜はもう開くことはないとカカシにはわかった。
凍りついた心臓からはミシリとひび割れた音が聞こえた。
カカシの言葉は全くイルカには届かない。
「・・・・どうなってるのよ・・」
カカシは生まれて初めて、途方にくれた。
翌日、受付所でイルカに会った。
今までは全く意識していなかったがイルカはアカデミーの教師のほかにも受付所の窓口も担当しているらしい。過去に数回イルカに書類を提出したこともあったかもしれない。でも酷い話だが記憶には残っていない。
考えてみればイルカの事をカカシはほとんど知らない。
それでも今では感情を持て余すほどにイルカの事が好きになってしまった。
イルカは今も窓口で屈託のない明るい笑顔を見せている。
にこやかに笑みを絶やさないイルカ。
艶やかに頬を染めて瞳の中に熱を揺らめかせるイルカ。
本当のイルカはどちらなのだろう。
カカシは無言で書類をイルカの目の前に差し出した。
「お疲れ様です、カカシ先生」
イルカはカカシに自然な笑みを見せる。
この受付所にいる人間全員に平等に向けられるであろう笑顔。
そんな物が欲しいんじゃない。
「・・・イルカ先生、今夜飯でも食べに行きませんか」
「カカシ先生・・・」
イルカの顔には昨夜見せた、困ったような、それでいてカカシを気遣うような憐れむような複雑な表情が浮かぶ。
「長い間世話になったから、そのお礼がしたいんです。それくらいさせて下さい、いいでしょう?」
イルカの表情に気付かない素振りでカカシは畳み掛けるように付け加える。
「・・・・そういうことなら・・」
「仕事が終わるまで待ってますね」
そういい残し、カカシは受付所を後にした。
理由が無ければ誘いに乗らないとイルカは言ったも同然だ。
「・・・痛い、な」
心臓が痛くて、息が詰まる。
二人で過ごしたあの数週間は幻だったのだろうか。
いい酒が飲めて、そこそこ料理の味も良い個室のある居酒屋を選んだ。
高い店ではないが、安すぎる事も無く清潔で居心地の良い店。あの部屋で暮らすイルカが寛げるであろう店を選んだつもりだ。
「お疲れ様です」
杯を合わせればイルカははにかんだような笑顔を見せた。
「たくさん食べてくださいね」
「はい」
イルカは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
昨夜の出来事も一晩でリセットされてしまったかのように。
酒を飲み料理を片付ける合間にポツリポツリと会話は交わされる。
意味のない、当り障りの無い会話。カカシから子供達の様子を聞けばイルカは楽しそうに笑う。
でも今日食事をする理由であるはずの二人で過ごした時間の事が会話にのぼる事はない。
「わからないよ」
とうとう耐え切れずにカカシは穏やかな空気を自ら壊した。
「今は何を考えて笑っているの?」
「子供達のことですよ」
イルカの鉄壁の笑みは僅かなほころびも見せない。
「子供達のことは、好き?」
「もちろん、好きです」
「じゃあ、俺の事は・・・?」
目の中に縋るような色が滲むのを自覚しながらも押さえられない。
「・・・好きですよ。あなたは里にとっても、子供達にとっても大切な人です」
なら、イルカにとっては・・・?
その一言を、カカシは云う事が出来なかった。
「俺も、イルカ先生の事が好きだよ」
お互いの言葉はそれぞれの身体の表面を滑り、空しく足元にこぼれ落ちた。
どんなに言葉を紡いでも、イルカには届かない。
空が好き。花が好き。歌が好き。――――カカシが好き。
イルカの云う『好き』には何の意味もない。
「イルカ先生、一つだけ聞いていいですか」
黒い瞳をしっかりと開きイルカはカカシを見やる。
「どうしてあの日、俺のいる場所が分かったの?」
何故、人里からかなり離れたあの場所で、気配を断ったカカシをイルカは見つける事が出来たのか。
全てはあの日から始まったのだ。
「だって、カカシ先生・・・」
その時、イルカの瞳の中にほんの一瞬、熱が揺らいだ。
「あの日、煩いくらいに俺の事呼んだじゃないですか」
イルカの言葉をカカシはずっと考えていた。
あの日、頭の中にイルカを思い浮かべたりなどしていない。イルカの顔を見ても咄嗟に名前を思い出せなかったくらいだ。それに人目を避けるように気配を断ち、呼吸を潜めていた。
それでもイルカはカカシが自分を呼んだのだという。
今日は受付所にイルカはいなかった。
受付所に今日の任務の書類を提出して帰路につこうとしたその時、カカシはここ数週間で身体が覚えてしまった間違えようのない気配を拾った。
二階の廊下の窓から下を見下ろせば、この建物の裏側になる階下の茂みに向かってしゃがみ込んでいる、黒髪を高く結わえた男がいる。
イルカだ。
イルカがひょいと立ち上がったときには手の中に黒い塊が収まっていた。その塊はうごめきながらか細い声を上げる。子猫を拾ったらしい。
イルカが子猫に頬をすり寄せる。
イルカの声が耳に届いた時、カカシの身体は衝撃のあまり身動きが取れなくなってしまった。
「大丈夫。俺が傍にいるから。安心して・・・・」
それは毎晩耳元でイルカがカカシに囁いていた言葉だ。
「あ、またイルカの病気が始まったぜ」
カカシが我に返り声のする方を見ると、少し離れた場所でカカシと同じようにイルカを見下ろしている忍達がいた。
何の、話だ。
「・・・・病気って、なに」
カカシは苦労してひび割れた声を発した。
カカシの不穏な空気に忍達は顔を強張らせる。
「イルカ先生、病気なの?」
口調は意識して和らげられてはいるが纏う空気はそのままで、カカシに対峙する忍達は緊張のあまり身を硬くした。
「いや、あの・・・病気、というよりも趣味というか、癖というか・・・」
「イルカの奴、動物やら人間やら怪我したり、困ってる奴等を引切り無しに見つけては世話を焼くんですよ」
「何で弱ってる奴等の居場所がわかっちゃうのか俺たちも不思議なんすけど・・・」
おそらくはイルカの同僚であろう忍達はまるで言い訳でもするかのように口々にカカシに云う。
「・・・それで、怪我が治ったらイルカ先生、その後どうするの」
忍達は顔を見合わせる。
「まあ、そりゃあ。動物ならともかく、人間なら各々生活もありますし、治ったらそれまでじゃないですか?」
「・・・何でそんな事・・・・」
「う〜ん、生きがいというか、手助けするのも好きだし、頼られるのも好きだからって感じがしますね〜」
「あ、俺もそう思ってた」
「俺も」
カカシを前に身を竦ませていた事をすっかり忘れてしまったのか、内勤の忍のおおらかさを発揮してイルカの同僚は話に花を咲かせ始めた。
「・・・ありがと」
勝手に話し始めた忍達から視線を外し、窓から下を見下ろせばイルカの姿は既に無かった。
今夜からはカカシが居た場所にあの子猫が収まるのだろうか。
弱者との繋がりが途切れるのを怖れるように常にアンテナを張り巡らすイルカ。
その特殊な繋がりに執着するイルカの不自然さに、何故誰も気が付かない。
イルカの不可解にも思われた行動が、ようやくカカシには理解できた。
任務から帰った夜、イルカはカカシには自分は必要無くなったと言った。
本当は、カカシがイルカには必要無くなったのだ。