自分に拍手を送りたいくらいだった。
動揺を面に現す事なくカカシに挨拶を出来たのだから。
カカシの新しい恋人はイルカに比べると階級も容姿もカカシと釣り合っているように思えた。
カカシが自分の次に選んだ相手はくの一ではなく男の忍だった。その事が余計にカカシはイルカの元を離れていったのだと痛感させる。
くの一が相手だったなら男の自分に無いものを求めての別離だと自身を慰める事が出来たのに。
本当にもう、自分が出る幕など無い。
カカシと腕を絡ませながら一時も離れようとしなかった忍をイルカは受付所で何度か見かけた事がある。外回りの任務を主に請負っている特別上忍で、陶器のような白い肌とその中性的な顔立ちは人目を引いた。その恵まれた容姿を活かしての諜報活動には確かな実績もあり、上忍の間でもそのサポート能力は一目置かれている。その美しい顔立ちと共に忍としての確かな力も持っている。
こういった人間こそがカカシの隣に立つべきなのだ。

すぐには気持ちは切り替えられないが、まだ未練があるだなんてカカシには絶対に気付かれたくない。
もう何も望まない。これからは自分の身の丈に合った生活を送れればいい。
しかしイルカのささやかな願いを周りは叶えてくれなかった。
「お前が写輪眼のお手つきか?」
カカシと別れてこれで何回目か。
受付所で下卑た笑みを浮かべながら話し掛けてくる男をイルカは無感動に見上げる。
カカシとイルカの仲はイルカが思っている以上に忍同士の間で噂になっていたようだ。特に隠しもしなかったが、カカシと今の恋人のようにおおっぴらに表を出歩くことなどしなかったというのに。
カカシがイルカの傍にいる内は好き勝手に噂に花を咲かせるだけだったのだろうが、カカシから捨てられたと見なされたイルカに面白半分にこのように絡んでくるものがいる。その人数は膨れ上がる一方だった。
「それほど顔が良い訳でもないのにな。よっぽどあっちの具合がいいんだろうな」
「・・・・報告書を、お預かりします」
さすがにイルカの顔から笑みは消えていたが、男に取り合わずイルカは男に向けて報告書を促すように手を出した。
受付所はシンと静まっていた。
男はニヤニヤと嫌な笑いを浮かべながら報告書を渡そうともせずイルカを舐めるように見下ろしている。
受付所に詰めているはほとんどが中忍なのに対して男は上忍。イルカの同僚も助けようにもどうする事が出来ない。
最初はからかい半分だった男は、その場の自分を窺うような空気にますます態度を増長させていく。
「これからちょっと付き合えや」
男は力任せに差し出されていたイルカの手を掴んで引いた。ガタガタと高い音を立てて机が乱れる。
このように受付所にきてイルカに絡んでくる上忍は今日だけで三人目。イルカは最早抵抗する気も失せていた。
逆に自分がこの場所に留まればますます同僚たちに迷惑がかかるだけだ。
別に操を立てる相手ももういない。
イルカは男に腕を引かれるに任せて席を立つ。
きっと周囲が面白がるのも今だけだ。こんな平凡な自分を取り巻く噂など一ヶ月ももたないだろう。
そう思うイルカは今この場面が新たな噂の種になることもまるで気にならなかった。
全てにおいて投げ遣りな気分になる。
連日に渡るからかい半分のこの手の誘いはイルカの心を少なからず荒ませていたのだ。声をかけられる度に治りかかった傷口をこじ開けられるような気がした。何でもない事なのだと自分に言い聞かせる。そう暗示でもかけなければ平静を装い仕事をする事など無理だった。
だから受付所の出入り口にカカシとその新しい恋人が入ってきてもイルカは特に何も感じなかった。
少し前は心の揺れを隠そうと多大な努力を強いられたカカシに対しても、イルカは無表情のまま軽く会釈しただけだった。
イルカの身がどうなろうと、どうせカカシが気にするはずも無い。
「よお、カカシ。お前が捨てた中忍は俺が拾ってやるからよ」
男は余計なことを言う。このまま何も言わずに受付所を出ていけば良いものを。
男の言葉にカカシは瞬時にこの状況を理解したようだった。
青い右目が少し見開かれイルカを捉えた。
カカシが僅かだが感情を露わにした事がイルカの居心地を悪くさせる。
「・・・早く済ませてください」
まるで自ら望むように男を急かし、イルカは男に身を寄せた。男はこれ見よがしにイルカの身体を自分へ引き寄せる。
男は悠然とカカシの傍らを通り過ぎようとする。
衝撃は突然だった。
男に掴まれていないもう片方の腕をイルカは突然後方に強く引かれた。その勢いで男の手はイルカの腕から外れ、イルカは思い切りよろける。
イルカは転倒を免れないと受け身を取ろうとするが、床に接するよりも遥か上でその身体は何者かの腕に抱きとめられていた。
布越しに感じる鋼のように鍛え上げられた身体と視界を掠める柔らかな銀糸を間違えようも無い。イルカの視界の端には無様にも尻餅をついたカカシの恋人が呆然とした体でイルカを見上げている。
イルカはカカシに抱きとめられていた。
カカシは自分の恋人の腕を振り払い、上忍の男からイルカを無理やりに引き離したのだ。
視覚では今起きた出来事を認知しているが、頭で理解する事が出来ずにイルカはカカシの腕の中で身を固くした。
「ちょっと!カカシッ!!何してんのさ!!」
「えっ・・・、あ・・・」
自分の恋人の声にカカシも我に返ったようだった。
間近でカカシとイルカの視線がかち合う。
イルカが見上げたカカシは心底驚いたように右目を大きく見開き、ひたとイルカを見つめ返していた。






◆◆◆





イルカを引き摺るようにしていた上忍の男は、引き離されたイルカの腕を再び掴み力任せに引く。
イルカが辛そうに眉根を寄せたのでカカシはイルカを抱き込む腕にますます力を込めた。
カカシに突き飛ばされたアサギは鋭い声で抗議しながらも自分の腕に取り付いて、イルカを抱き込むカカシの拘束を緩めようとしている。
その自分の腕の中に囲われたイルカは息苦しそうに顔を顰めたままだ。
「どういうつもりだ。その中忍こっちに寄越しな」
「カカシ!どういうつもりっ!!」
自分の周囲を取り囲む人間たちが口々に騒ぎ立てる。
「カ、カカシさん。離して下さい・・・・」
イルカのか細い声にだけカカシの身体は反応を示し、ますますイルカを抱きしめる腕に力が篭る。
「カカシッ!!」
アサギの声が耳を突く。
しかしカカシの行動に一番驚いているのはカカシ自身だった。
カカシの行動によってこの受付所の混乱は起こっている。しかし、カカシはどうしてもイルカを解放する気になれないのだ。
反射的に思ってしまった。
イルカが自分以外の男に抱かれるなど、嫌だ。
我ながら勝手過ぎると十分に承知しており、アサギの手前その想いを口にする事はさすがにモラルが低い自分でも憚られた。
自分がイルカを解放すれば、イルカ自身でさえ承諾していた通りに事態は終息する。
しかしイルカを手放して目の前の男に差し出すことに心も身体も拒否反応を覚える。
イルカを渡したくない。
「カカシ」
「カ、カカシさん・・・」
「カカシッ!!」
三者三様の想いで名を呼ばれるも、カカシは答えることすら出来ない。
受付所は不穏な空気が充満したまま膠着状態が続いたが、開け放たれた受付所のドアの外から間延びした太い声が室内の空気をかき回すように入り込んできた。その新しい空気に救われたかのように当事者以外の人間は長く息を吐き出す。
「お前ら、いい加減にしろ」
口の端に咥えた煙草から紫煙を立ち上らせたまま、のっそりとアスマが受付所に入ってきた。
のんびりとした口調と反比例してアスマの眼光は鋭い。
「イルカは俺が引き取る」
アスマは必要以上に口を開かず、その後は無言の圧力をかけ男を見据えた。
腑抜けたような調子のカカシの前では引かなかった男は、アスマに凄まれると「冗談だ」などと言い訳めいた事を漏らしてその場から逃げていった。
アスマは男にはすぐさま興味を無くし今度はイルカに目を向ける。
「イルカ、お前はどうする。そのままそいつとよりを戻すか。それともそいつとは縁を切るか?」
アスマの言葉にイルカはカカシの腕の中でヒクリと身体を震わせた。
しばらく時が止まったかのようにその場は静まり返っていたが、沈黙を一番に破ったのはイルカだった。
イルカはやんわりと身体に巻きついているカカシの腕を外した。
「助けていただいて、ありがとうございました」
カカシに向かってイルカは深々と頭を下げる。
抑揚の無い形式的な礼の言葉を、行き場を失った両手をだらりと下げカカシはただ聞いていた。
ベストの裾を引かれて後ろを振り返ると、アサギが酷く強張った顔をして自分を見つめている。しかし、カカシはアサギにも気の利いた言葉一つ言えずに口を噤む。
「俺、このまま上がるから」
これは同僚に向けられたイルカの言葉で、受付所の入り口の上にかけられた丸時計は17時を20分ほど過ぎていた。
ぼんやりと立ち尽くすカカシとそのカカシにピタリと張り付くアサギをもう振り返ることも無く、イルカはアスマと連れ立って受付所を出ていこうとしていた。
イルカの肩にはアスマの腕がしっかりと回されている。
「アスマ!」
思った以上の大声が出てカカシは思わず舌打ちをした。先程から自分の行動をコントロール出来ないでいる。
「引き取るって、どういうこと」
搾り出すような、何とも苦しげな声で、自分の声ではないようだ。
受付所の戸口でアスマは首だけをめぐらせカカシを一瞥した。
「・・・まあ、そのままの意味だ。お前はその新しい男と仲良くやりな」
アスマは殊更見せつけるようにイルカの肩に回す腕の力を強める。イルカは一度もカカシを振り返ることはなく、二人はカカシの視界から消えた。

イルカにはすっかり飽きたから、自分から関係を清算したはずだった。
しかし、今の自分の行動はどうしたことだろう。あれではまるでカカシの方が未練たらたらでイルカに取り縋っている様ではないか。
自分の頭の中を整理することは容易ではなく、カカシはしばらく同じ姿勢のままでその場に立ち尽くしていた。




◆◆◆




夕闇の迫るアカデミーの中庭は人影も無くひっそりとしていた。
人気の無い所まで肩を並べて歩き、ここにきてようやくアスマはイルカの肩から手を外した。
どかりとベンチに腰掛けるアスマから少し距離を置いてイルカもそっとその隣に腰を降ろす。
「お手を煩わせてしまって・・・・」
小さな声とともにイルカはアスマの横で頭を下げた。
「まあ、気にすんな」
アスマは胸のポケットからもう一本煙草を取り出すと少し背を丸めて火をつけた。
「いいカモフラージュになっただろ」
イルカがアスマに目をやると、アスマは普段と全く変わらぬ様子でベンチの背に身体を預け紫煙を燻らせている。
アスマとの付き合いはイルカがカカシと親密になるずっと前からのもので、アスマが上忍師になったここ数年は数ヶ月に一度と言う頻度だったが一緒に連れ立って飲みに行くこともある。始終一緒につるんでいる訳ではもちろん無いが、アスマはイルカが何か問題や悩みを抱えているとふらりとやって来てイルカの気持ちを軽くしてくれる。ただ黙って朝まで一緒に酒を飲んだり、一時間かそこらイルカの話を遮らずに聞いてくれる、それだけの事だったのだがアスマと一緒にいると不思議と自分の抱える問題はたいした事は無いと思えるのだ。
イルカはアスマの持つ雰囲気とか、相手の負担にならない接し方、それをさり気なくできる人としての器の大きさに羨望も覚える。アスマのような師に師事する子供は幸せだと思う。いい大人の自分ですら散々アスマに救われているのだから。
しかし、色恋の事でまで迷惑をかけるのはさすがに心苦しい。
「本当に、すみませんでした」
イルカは肩を落として項垂れた。
「まあ、ほとぼりが冷めるまではこのままにしておけ。お前も上忍相手に毎回抵抗するのはしんどいだろ」
「それではアスマさんに迷惑が」
「迷惑なら最初っから首を突っ込んだりしねえ」
アスマの大きく厚い掌がぽんとイルカの頭の上で弾んだ。
「お前が笑ってないとガキ供も落ち着かねえみたいだからよ」
子供達の事を出されるともうイルカは何も言えない。平静を装っていたつもりだったのに子供達にまで煩悶する空気が漏れ伝わってしまったのかと思うと自分の未熟さにますますイルカの心は重くなった。
「あいつとお前は、違いすぎたからな・・・・」
沈み込むイルカに淡々とアスマは言葉を落とす。
「お前らは考え方が違いすぎる。お前がいくら我慢してもな、あいつが変わらない限り遅かれ早かれこうなった。なら傷は浅い方がいいだろ?あんな馬鹿の事は早く忘れちまえ」
イルカは緩慢な動作で足元から真横のアスマに視線を戻した。
穏やかな、深い眼差しでアスマは静かにイルカを見つめていた。
そのアスマの姿が段々とぼやけてくる。
泣くのはあの晩で最後と決めたはずなのに、堪え切れずに堰が決壊したかのようにイルカの両目から涙が溢れ出した。
「・・・っ・・」
瞼をきつく閉じても後から後から涙が溢れてくる。
「イルカ、口開け」
きつく噛み締めていたイルカの唇に何か暖かいものが触れた。目を見開くとアスマが親指の腹でぐいとイルカの口を押し開こうとしている。
「・・う、っ・・」
開いた口元からはみっともない嗚咽が漏れた。
「しんどそうな泣き方すんじゃねえ。おら、思いっ切り泣け」
「・・ぁっ、っく・・」
アスマはイルカの口元から手を離すと、イルカの後頭部をぐいと自分に引き寄せて涙でグシャグシャのイルカの顔を自分の肩口に押し付ける。
限界だった。
それからイルカは声を上げて号泣した。
子供の頃だってこれだけ泣いただろうかと言うほどに、嗚咽を抑える事もせずアスマにしがみ付き泣きに泣いた。
こんなにも胸が痛かったのだ。自分はこんなにも傷ついていたのだ。
見ない振りをして傷口に蓋をしたところでカカシと別れた辛さは少しも癒えてなどいなかった。
アスマは何も言わずにじっとしてイルカに肩を貸してくれていた。
イルカが泣き疲れて、ひくりひくりと僅かにしゃくりあげるだけになった頃には夕日も沈みきりすっかり日が暮れていた。
泣ききってもイルカの胸は未だにじくじくと痛みを持っている。
それでもやっとイルカはカカシと別れたあの晩のスタート地点に立つ事ができた。
これからはもがいて苦しみながらも、受けた深い傷を少しずつイルカは乗り越えて行く事ができる。
「腹ぁ減ったな。イルカ、メシ食いに行くぞ」
アスマは何事も無かったかのようにのそりとベンチから立ち上がった。
「はい」
目元も鼻の頭も真っ赤に腫れ上がりイルカの顔はかなり見苦しい事になっているだろうが、周囲からじろじろと見られてもどうでも良い様な気がする。
大股で歩くアスマの背をイルカは軽くなった心を表すように少し小走りで追いかけていった。




















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