人はあまりに腹が立つと視界が赤くなるのだとイルカは生まれて初めて知った。
二人の付き合いは恋人同士と呼べない事は無かったが、実質はイルカの片恋に始終していた。だが、だからといってこんな勝手な言い分をイルカが呑まなければならない謂れは無いだろう。瞬時に怒りは爆発した。
自分の拳を避ける事なく受け、殴られた頬を押さえている割には平然とイルカの前に立つカカシに更にどうしようもなく怒りを覚える。
「イルカ先生、ほんとにごめんね?俺、アサギよりもやっぱり先生のほうが好き。また俺と付き合って」
別れて欲しいといった同じ口で、今度はいとも容易く反対の言葉をカカシは吐き出した。
このイルカが断る訳など無いだろうと信じきっているカカシの傲慢さときたら。
カカシを殴った後、黙りこくるイルカにカカシはなおも寄りを戻して欲しいと言い募る。
一度殴らせたらイルカの気が済むだろうというカカシの計算も手に取るように伝わってくる。
イルカの中で必死に殺そうとしながらも燻り続けていたカカシへの恋情、その全てが急激に色褪せてしまった。
なんて馬鹿馬鹿しい。
昨日までカカシを想って泣いていた自分が本当に馬鹿みたいだ。
物心つく前から優秀な戦忍として戦地を駆け巡っていた人だ。凡人の自分には計り知れない所もあるだろう。
イルカはカカシの全てを受け入れ愛そうとした。
だがこれは酷すぎる。イルカの手には余る。
カカシには徹底的に欠けている物がある。相手の心情を汲む思いやりだ。
そんな気遣いをしなくてもカカシは今まで生きてこられたのだ。カカシの周囲もきっと長い間それを許してきた。
イルカと付き合っている間もそうだった。全てカカシの都合で物事が動いていた。
イルカもカカシに嫌われたくない一心でカカシの言うまま従ってきた。
しかし全てに諾と従ってきたイルカだったが、これ以上自分を殺してまで繋ぎとめる価値が果たしてこの男にあるのか。

答えは否。

どうして別れを告げてからそのままイルカのもとを離れていってくれなかったのか。
そうすれば今胸の内で渦巻く限りなく嫌悪に似た感情をカカシに対して抱かずに済んだのに。
まるで魔法が解けてしまったかのように、目の前の男にイルカは何も感じない。カカシと一言二言言葉を交わしただけで胸が高まっていたのが大昔の事のようだ。
カカシはイルカがあの晩から胸が潰れる想いを騙しながらその日その日をやり過ごしてきた事など思い至りはしないだろう。
どう頑張ってもアスマが言う通り、カカシとイルカは相容れなかったのだ。見返りを求めずに想いを寄せ続ける力はイルカの中でたった今尽きてしまった。
感情が昂ぶりすぎてそれが返ってイルカの頭の中を冷たく凍らせている。
あんたなんかごめんだと、今までの口調も一転させてカカシに言い放った。
目を瞠って棒立ちになっているカカシに構わずイルカはその場を後にした。







◆◆◆◆







「湿気た面ぁしてんな、カカシ」
「アスマ・・・」
待機所でぐったりと四肢を投げ出し長椅子を丸まる一つ占領していたカカシは声の主を見上げた。
「アスマ・・・。イルカ先生、俺に返してくんない?」
「俺が身を引けばイルカと元に戻れるとでも思ってんのか」
「・・・・」
とてもそうとは思えなかった。
カカシはアスマに背を向けてごろりと身体を反転させた。
あの時、一度も振り返る事なく歩き去ったイルカをカカシは成す術も無く見送った。
いつも自分に対して一言も反論する事無く穏やかに微笑んでいるイルカしかカカシは知らない。
呆然としたままカカシはその場にしばらく立ち尽くしていた。
ひどく驚いたのだ。
イルカの身体の中から突如膨れ上がったちりちりと肌を刺すようなささくれ立ったチャクラにカカシは心の底から驚いた。これほどにイルカに拒絶されるなど夢にも思わなかった。
今までの恋愛は全て自分が主導権を握っていて、付き合いたいと思えば誰とでも付き合えたし、面倒臭くなればすぐに切り捨ててお終いだった。
去るものは追わない主義だし、一度捨てた物も基本的に拾わない主義だったが気まぐれと成り行きに任せて声をかければ誰でもカカシに応えて寄りを戻した。
自分の意志でわざわざ出向き、声をかけたのはイルカが生まれて初めてだったのだがイルカはカカシを拒絶した。
予想外の出来事にカカシは未だぼんやりとして自分のペースを取り戻せないでいる。
とにかくイルカが自分に憤っている事は分かった。
表情を消しながらも荒ぶり波立つチャクラを押さえきれないほどにイルカは怒っていた。
「アサギはどうした」
向かいの長椅子にどかりとアスマが腰掛ける。
「昨日別れたよ。別れたって言ってんのに。イルカ先生、まだ浮気した事怒ってんのかねえ」
どう考えたって一方的に自分が悪い。
だがこれまで散々イルカに甘えて我を通してきたカカシは自分の行いを棚に上げて、ついついイルカを責める口調になってしまう。
そのカカシを前にアスマは紫煙とともに大仰に溜め息を吐き出した。
「手前にゃあイルカはもったいなさ過ぎる。何であいつが腹立ててんのかわからねえなら、尚更イルカを渡す訳にはいかねぇな」
「ゲホッ・・!何する・・!髭!!」
至近距離で思い切り煙草の煙を吹き付けられてカカシは激しく咳き込んだ。
咳き込むカカシを一瞥してアスマは無言で待機所から出ていった。
「何だってんだよ・・・・」
イルカの気持ちを理解している素振りを見せるアスマにカカシの苛立ちは更に募る。
衝動的にカカシは待機所を飛び出した。
何を言えばいいのか思いつきもしない。それでもイルカの姿を求めてカカシは受付所に向かったが、カカシが後を追う形になったアスマはカカシよりも一足先にイルカと行き会い、二人連れ立って受付所から出てきた。
カカシは咄嗟に気配を消し二人の前から姿を隠した。そんな自分の無様さにカカシは小さく舌打ちをする。
イルカは笑っていた。
アスマはポンポンと軽くイルカの頭を叩き、イルカはそれに応えて柔らかく笑っている。
その笑顔も何だかカカシは初めて見る種類の物のように思えた。
きっとイルカはアスマに心を許しているのだ。あれがイルカの心からの笑みだと思った。
カカシの息が詰まる。
イルカがあんな笑い方をするのすら、自分は知らなかった。いや、今まで知ろうともしなかった。
イルカにアスマに対するのと同じように自分にも笑いかけてもらうにはどうしたら良いのだろうか。
ボタンは最初の一つ目からかけ間違えられていて、カカシは何処をどう直せばよいのか見当も付かない。
なにせカカシはこれまで切れてしまった関係を繋ぐ努力などした事も無いのだ。
カカシの存在など気付きもせずにイルカはアスマと一緒に廊下の曲がり角の向こうに消えた。
全身が急に鉛のようにずしりと重くなった。
特に胸の真ん中は鉄の塊でも詰め込まれたように息苦しくて仕方がない。
開き直っていい加減に生きてきたツケが今回って来たように思う。
考えないようにしてきた自分の心のありように向き合うのは骨が折れるだろう。
しかし、まるで心臓を締め上げられたように胸が痛むその理由を良く考える必要があるのだ。
本気でイルカを手に入れたいとカカシが思うのならば。










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