5
一番くつろげる場所であるはずの自分の部屋に、この頃帰るのがひどく気が重い。
ほぼ毎日、銀髪の上忍が自分の部屋のドアにもたれて座り込んでいるからだ。
「イルカ先生・・・・」
イルカの姿を認めるとカカシは毎晩同じ言葉を言う。
「ごめんね・・・。どうしたら、許してくれるの?」
ふう、と。イルカは隠しもせずにカカシの前で盛大に溜め息をつく。
「明日、早いんです」
カカシの言葉には答えずにイルカもいつもと同じ事だけカカシに告げた。カカシはイルカの言葉を受けると黙ってドアの前から身体をずらす。イルカは無言で部屋に入るとカカシの気配を感じながらも部屋のドアを閉める。
こうしてカカシがイルカの元を二日と空けずに訪れるようになったのはイルカの言い分をカカシがのんだ結果なのだが、この状況はイルカが望んだ物では決して無い。
イルカがカカシを思い切り殴りつけてからというもの、カカシは場所を選ばずにイルカを見つけては詰め寄りやり直して欲しいと訴えるようになった。
人が変わったように余裕無く切羽詰まった風のカカシにイルカはひどく面食らった。
色恋に長けているカカシならもっと他に上手いやり様があるだろうにと、イルカにさえ思わせるほどにカカシはイルカの姿を見つけては頑なに同じ言葉を繰り返す。
しかしアカデミーの幼い子供達の前で腕を掴まれた時はさすがにイルカもカカシに怒鳴りつけた。
「ここは俺の職場だ!迷惑です!!」
受付所だってイルカの職場ではあるが、周りは事情を察して何も言わずにいてくれる大人ばかり。しかしアカデミーの子供達の前でカカシと言い争う訳にはいかない。
イルカの真剣な怒りを感じ取ったのか、唯一晒された右目をカカシはハッと瞠って「ごめん」と一言呟くと瞬く間にイルカの前から姿を消した。それからはアカデミーはもちろん、受付所へもイルカの勤務中にはカカシは徹底して姿を現さなくなった。
しかし、代わりにこれだ。
初めてカカシに家の前で待ち伏せされた時にはそこまでされるとは露とも思わなかったイルカはひどく驚いたが、
「俺よりも、アスマがいいの?」
などと挨拶も無くいきなりピントのずれた事を言い出すカカシにどっと疲れてしまった。
カカシ以外の人間に気持ちが移ったから寄りを戻さないとでも思っているのか。
もしそうならば、あれほどにイルカが怒りカカシを殴りつける事などなかっただろうに。他に好きな者がいるとカカシの申し出を断われば良いだけの話だ。
どうしてイルカがあの時怒ったのか、カカシは真剣に考えようとはしない。上っ面でだけ謝るばかりだった。
イルカは悲しみと落胆が入り混じった何とも複雑な気持ちになった。
カカシとまだ関係が続いていた頃、イルカはカカシと深く話し合ったりする事などなかった。自分の想いよりもカカシの言い分を何より優先させていたから。
なら、今こうして執拗にイルカと接触しようとするカカシと話し合う事が出来るのかと考えると、やはりそれは難しいと思う。
カカシはイルカに会いに来るが、カカシは以前と何も変わっていない。イルカの意志に関係無く自分の欲求を通したいだけなのだ。
カカシはイルカの事が好きなのではなく、自分の気が済むようにイルカを傍に置きたいのだと思う。そのイルカへの執着心はどこからくるのかは知らないが。
イルカの中で怒りの感情は諦めの感情にとって変わった。
カカシの言うままに寄りを戻した所で同じ事の繰り返しだ。なによりもイルカ自身、以前のように盲目的にカカシを想うことは出来ないだろう。
「ええ、アスマさんの方が良いです」
イルカは容赦なくカカシに言葉を投げつけた。
「あなたが新しい相手を選んだように、俺はアスマさんを選びます」
カカシはイルカの足元で身動ぎもせずに膝を抱えたままでいた。
どいて下さい、と声をかければカカシは素直に腰を浮かせてドアの前から身体を引いた。イルカはカカシを部屋に上げることなどせず、カカシの鼻先でドアを閉めた。しばらくドアの前にカカシの気配を感じていたが、いつの間にかカカシの気配は消えていた。
それが最初で、それからはほぼ毎日。まるで願でもかけているのかという熱心さでカカシはイルカの元を訪ねてくる。
大抵は下忍の監督任務が終わってすぐにやってくるのか、イルカよりも先にカカシはイルカの部屋の前にやって来てじっとドアにもたれて座り込んでいる。
イルカの帰宅に間に合わない時もあり、ボロボロの体で血臭まで漂わせ、這うようにしてイルカの部屋にやってくる事もある。
任務の帰りだったのか、そんな日であってもカカシはイルカの部屋までやって来てコツコツと躊躇いがちにドアをノックする。イルカが無理矢理にカカシに部屋まで通わせている訳ではないが、そうなるとまるで自分が非道な人間のように思えて胸が塞いだ。
毎晩イルカの元を訪れる事が誠意だとでも思っているのだろうか。来ても無駄だ、もう来ないで欲しいとイルカは何度も言った。
明日も仕事があるのに、ごめんね。
こんな遅くに、ごめんね。
毎日・・・ごめんね。
通い始めてしばらくして、カカシがイルカに気遣う言葉をかけるようになった。そして、その頃には許しを請う言葉が無くなった。
イルカの顔を見てカカシは頼りなげに小さく笑う。そしてイルカが部屋に入るのを確認するとそっと姿を消す。
カカシのせいでイルカだって散々傷ついたのだ。簡単に許す事など出来ない。
それでも、どんなにピントがずれていても自分に歩み寄ろうとしているカカシを突き放すのがイルカは辛くなってきた。
だから最近は家に帰るのが苦痛だ。
完全にオーバーワークだと分かってはいるが日中のアカデミーの講義が終わるとその後は受付の夜勤を無理矢理に請け負い、その日イルカはじっと受付所に篭っていた。
受付の交代要員が来るのは明け方で、まさかそんな時間までカカシも部屋の前で待っていないだろう。帰ったら泥のように何も考えずに眠ろう。そうすればあっという間に休日は終わり、また何も考えられないほど仕事で毎日が忙しくなる。家にいるのは嫌だ。深夜の受付所のように何も仕事が無いまま待機をしているだけというのも色々と考え事に囚われてしまうが家にいるよりはずっといい。
さすがにこの所の寝不足が祟り、落ちかかってくる瞼を必死に持ち上げながらもイルカは無人の受付所を静かに守っていた。
長い間物音一つ立たない受付所でぼんやり宙を見つめていたイルカは、受付所のドアノブが捻られる金属音に思わず身体を強張らせた。いつの間にか気が抜けていたイルカは頭を一振りするとしっかり背筋を伸ばして里へ帰還した忍を迎えた。
「・・・これはこれは。アスマの女じゃねえか」
嘲笑を滲ませた物言いはしばらく前に受付所でしつこくイルカに伽を強要した上忍の物だった。
軽くイルカは息を呑んだが少し足を引き摺るようにしてこちらに向かってくる男に別の意味で目を瞠る。
「全く、俺らが命削って這いずり回ってる間、内勤の奴等はいいご身分だな」
イルカの机の上に投げつけられた報告書には所々に血が滲んでいる。その血はまだ乾いてない。
「里のために体張ってる上忍様に対して言う事があるだろうが」
「任務・・・お疲れ様でした」
イルカは淡々と報告書に認印を押し、書類を処理する。
今回の任務は相当にきつかったのだろうか。この前と同じようにイルカを見下し、言葉で辱めようと男の口は動き続けるが顔色も悪く体の動かし方もぎこちない。
「報告書は受理しました。では、こちらへ」
イルカが立ち上がるとイルカの目線は男よりも高くなる。
急にイルカから見下ろされて、しかもいきなりイルカに手を取られた男は戸惑いを隠し切れない様子だった。
受付所の仮眠室に男を半ば引っ張るようにイルカは連れて来ると、服を脱ぐように男に言う。
「へっ。俺のまで咥えてくれんのか?アスマだけじゃあ、足りねえか」
男の言葉に取り合わずイルカはベッドに腰掛けた男の足を無造作に掴む。男は息を呑んだ。
「膝裏でしたか。歩く時には辛かったでしょう・・・。手当てをさせてください」
男はそれきり黙りこんでしまった。だがイルカの手を止めようともしなかった。
イルカは手際よく脚絆を解き、ズボンの裾を捲り上げ男の傷を検分する。脇から覗き込むと男の膝の裏はスパリと切れており、筋肉が少ないため出血はそれほどではなかったが腱が皮膚の間から覗いていた。
イルカは救急パックから針と糸を取り出し手際よく傷口を縫い合わせた。その上に化膿止めを染み込ませたガーゼをあて包帯を巻く。
「これで歩く時にはだいぶ楽になると思いますが、念のため後で病院に行ってください」
男の傷口からイルカが顔を上げると男は口を引き結んで眉根を寄せていた。イルカの行動に対して解せないといった表情がありありと浮かんでいる。
「・・・怪我をした同朋がいれば、相手がどなたでも私は同じ事をします」
言葉を無くしたままの男をそのままにイルカは救急パックを片付けようと腰をあげた。
毒気を抜かれたように大人しくなった男に油断をしていたのだ。
「ぐっ・・・!」
急に腹部を思い切り押され、その衝撃にイルカの目は霞んだ。
背中から背後のベッドに叩きつけられて息が詰まる。イルカは両肩を物凄い力でベッドに縫い付けられてしまった。
イルカが痛みに顔を顰めながら目を開ければ、自分の身体の上に男が覆い被さるようにしている。
手負いの忍には余程の顔見知りでなければ同じ里の者でも気をつけろ、と。何年も前に任務で上官に言われた言葉が今鮮明に蘇ってきた。
「離して、下さい・・・・」
イルカを見下ろす男の目にはギラギラと異様な焔が踊っている。
「俺に全て差し出せ」
イルカを使って任務後の興奮を散らそうというつもりなのか。
この時間では他の忍が受付所にやってくる事はまずない。交代の同僚もあと数時間はやってこない。
怪我を負っているとはいえ、イルカよりも数段に厚い筋肉に覆われた巨体に圧し掛かられては抵抗するのは難しい。だが、上官だからと言って理不尽に下位の者に伽の強要をするなど実態はともかく建前では里は厳しく禁じている。
イルカは隙あらば逃げ出そうと四肢に力をこめもう一度口を開こうとした。
だが男と目が合ったその時、イルカは見てしまったのだ。男の目の奥に情欲だけではない色が滲んでいるのを。
男は体型も容姿も全く異なっているというのに、男のイルカを見る目がカカシのそれと重なる。
「俺の、物になれ」
その言葉は一晩限りの性欲処理の相手に向けるべき言葉ではない。
上忍の力を振りかざし、イルカをただ慰み物にしようというのならイルカは力の限り抵抗しただろう。
男の本気に動揺してイルカの反応が僅かばかり遅れた。