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風呂場でのそれの抵抗は先ほどの比ではなかった。
「んなぁーっ!あおーぅぅ!!」
とにかく湯に濡らされる事を嫌がる。
人の形をしているが、本当に何から何まで猫の性で動いているのだろう。
「くっ!言うこと聞けって!!」
カカシまでもずぶ濡れになり、已む無く身体に纏わり付く服を脱ぎ捨てた。
渾身の力を込めて押さえつけ、わしわしと頭を洗い、オレンジジュースまみれの身体をスポンジで擦ってやる。
それは大変な暴れようで、全身を泡塗れにしてカカシの腕からつるりぬるりと逃れようとする。
かと思えば同じく泡塗れのカカシの腕に噛み付いてソープを思い切り飲み込み目を白黒させたりしていたが、とうとう疲れ果ててしまったようだ。
しまいにはカカシにされるがままで恨みがましく鳴き声を漏らすだけになった。
「あーぉ、あーぉ・・・・」
「そんな声出しても、ダメ」
ぴしゃりとカカシは言うと、キッチリそれにリンスまでしてやる。
自分はこんなに面倒見が良かったのかと、我ながら驚くカカシであった。
ようやくそれの全身を洗い終わり、ぐったりと力を無くしたそれを抱えたままカカシは浴槽に身を沈める。
それが湯の中に沈まないように後ろからしっかりと抱きこんだまま、カカシはじんわりとお湯が身体を温めていく感覚を楽しむ。
「・・・ンンン・・」
どうやらそれも湯に浸かるのは気持ち良かったらしく、気持ち良さげにカカシの胸に後頭部を擦り付けてくる。
「ほら、気持ちいいだろ?・・・・頼むから次は大人しくしてよね」
空きっ腹の上に疲れを癒すはずの風呂で激しく体力を消耗し、カカシは浴槽の縁にガクリと頭を預けた。
自分の身体からカカシの腕が離れ不安になったのか、それは身体を反転させてカカシの首筋にぎゅうと両腕を回してきた。
二人とも裸で、それはカカシに向かい合わせに跨る格好になっているのでかなりきわどい体勢だ。
けれどもカカシの中でそれは手のかかる子供くらいの認識しかないので、特に何の感情も湧かない。
自分に縋り付いてくる体温を突き放すでもなく受け入れて、安心させるように湯の中で背中を撫でてやる。
それはカカシの首筋にぐりぐりと額を擦り付けてきた。
一人の時間に慣れきっていたカカシにとってこんな風に他人に振り回されるなど煩わしい以外の何物でもない。
だが、安心しきって自分にピタリと肌を寄せるそれを前にすると何故だかじんわりと暖かい気持ちになる。
充分に身体を温めて湯から上がると、カカシはそれの身体を手早くタオルで拭いてやる。
風呂から上がったころには、風呂に入る前と比べるとそれは劇的に従順になっており、カカシが両手を上げさせると万歳したままじっとしている。
「はい、次後ろ」
カカシがくるりと反転させるとそれは万歳したままされるがまま後ろを向く。
身体は充分に大きいのに幼さを感じさせるその素直さに、昨夜の子猫に向けた同じ笑みが知らずにカカシの口元に零れる。
髪を乾かす時ドライヤーにはビクリと身体を揺らしたが、それは身体を固くさせながらもカカシにされるに任せていた。
カカシが自分にする事は害を成す事ではないと、なんとなく理解は出来たらしい。
ドライヤーの音と温風に身体を硬直させてぎゅっと目を瞑り、それは懸命に耐えている。
その姿が可笑しくて、カカシはずっと喉からくすくすと笑い声を漏らしっぱなしだった。
もう一度深皿にオレンジジュースを注ぐ。
同じ失敗を繰り返さないように今度は髪を結んでおいた。
輪ゴムしかなかったが、また髪をオレンジジュースまみれにするよりはましだろう。
顔面がびしょ濡れになるのは仕方がない。あとで拭いてやれば良い。
風呂上りで喉も渇いていたのだろう、それは無心にオレンジジュースを舐めている。
やっとそれが自分の手から離れて、カカシも自分の食事の準備をする。
あまり物で簡単に焼き飯を作る。それとビール。
カカシがやっとその日初めての食事にありついた頃には日も暮れかかっていた。
なんとなく、それの隣で床に直に腰を下ろしカカシは焼き飯を口に運んでいたが、ふと視線に気付いてそれの方を見た。
それは空になった深皿を脇に押しやり、カカシのもとへじりじりと四つん這いで近付いてくる。
ぺろりと。
それは伸び上がって、カカシの唇を舐め上げた。
驚いてポカンとカカシの口が開く。
今度はそれはカカシの胡座の上に乗りあがると、カカシの後頭部にしっかりと手を回し口を塞いできた。
「んんっ?!」
カカシの両手は脇に退けようと持った焼き飯の皿と缶ビールで塞がっていて咄嗟に抵抗できなかった。
それの柔らかな舌は奔放にカカシの口内を弄って、しばらくして出て行った。
それの唇から解放されても、突然の出来事にカカシは呆けたように口を開けっ放しでいた。
カカシの膝の上でそれは満足そうにもぐもぐと何かを咀嚼している。
ん、とそれはカカシの口の端をもう一度舐めあげる。
そして再びもぐもぐと口を動かす。
「や・・・焼き飯を食いたかったのか・・・・・」
耳元に心臓があるかのように、ドクドクとカカシ鼓動はうるさい。
生まれたての子猫のように思えたのだが、もう離乳は済んでいたのかもしれない。
それでは牛乳やジュースなどではとても足りなかっただろう。
更に伸び上がってカカシの口元を狙っているそれをカカシは慌てて押しやる。
「ま、待てって。ほらこっちからやるから」
それにしてみれば親から咀嚼したエサを口移しで貰ったつもりだったのかもしれないが、そんな事を再びするなど流石に抵抗があった。
焼き飯をスプーンで掬ってカカシはそれの口元に運ぶ。
しかしスプーンが気になるのか、それはスプーンに歯を立てるばかりで上手く食べる事ができない。
ぱらぱらと焼き飯は床にこぼれた。
「ほら、口開けな」
カカシは仕方なく指で掬って焼き飯をそれの口元に運ぶ。
今度は口を開けてカカシの手から直接それは焼き飯を食べ始めた。
焼き飯を丹念にカカシの指から舐め取ると、今度はカカシの指を無心にちゅうちゅうと吸い上げてくる。
離乳は済んでいるようだが、その仕草は無意識に出てしまったようだ。
(あー、もう、ダメ・・・・)
本当は昨夜からまずい、と思っていた。
すぐにでも里親を探そうと思っていたのに、拾った子猫は信じられないがこんな事になってしまったし。
何よりも、自分に頼りきっているそれの姿をカカシは愛しいと思い始めている。
一日一緒に居ただけなのに。
手放し難いと、それに対して情が湧き起こっている事をカカシは自覚した。
あっという間に日も暮れて、カカシはテレビに釘付けになっているそれをソファの上から眺めている。
ソファに横になり夜はテレビの明かりだけでぼんやりと部屋で過ごすのがここ最近の寂しい一人身のカカシの習慣だったのだが。
今日はテレビでは海洋生物の特集が組まれていて、部屋全体が青い光に満たされている。
それはテレビのまん前に陣取って、熱帯魚の群れや小魚の群れに盛んに手を伸ばしている。
あれは猫パンチというものなのだろうかと、今まで猫と慣れ親しんだ事の無いカカシは興味深くそれを眺めていた。
画面の右に寄ったり左に寄ったりと忙しそうだったそれは突然ピタリと動きを止めた。
見ると画面一杯に優雅に泳ぐ海豚が映っている。
海豚は獲物にするには大きすぎたのだろう。
それは真剣に海豚が泳ぐ様を見上げている。
ゆらりと画面に映し出された水と光が揺れると、それを包み込む青い光もゆらりと揺れた。
光の揺らぎはまるでそれが水中を優雅に泳いでいるかのような錯覚をカカシに起こさせる。
「・・・イルカか・・」
ピクンと耳を動かしてそれがカカシを振り返った。
膝を擦りながら近寄ってくると、それはソファに仰向けに寝転がるカカシの上に乗りあがる。
「なぅ」
真っ黒な瞳がじっとカカシを見下ろしてくる。
カカシがそれの耳を柔らかく揉むように撫でてやると、それはうっとりとした様子で目を閉じた。
本物の猫ならば喉でも鳴らす所であろうが、それはカカシにお返しだとばかりに覆い被さり胸元にすりすりと頬を擦りつけてくる。
自分の顎をかする柔らかな黒髪の心地よさにカカシは思わず目を閉じた。
「気持ちいい・・・」
何故かそれの体温はカカシにしっとりと馴染む。
「いい加減、名前考えなきゃな・・・」
人でもない、猫でもない。
まさか警察に届けるわけにもいかない。
自分の身近な人間にさえも見せるわけにはいかない。
これからの生活をそれと過ごしていこうと、いつの間にかカカシは当たり前のように考えていた。
それは伸び上がってぺろりとカカシの唇を舐めると、フイとカカシの上から床に降り再びテレビの前に陣取る。
海豚の事がよほど気になるのか、気に入ったのか。
画面の海豚が優雅な曲線を水中で描く度に、それもあわせるようにゆっくりと身体を揺らす。
カカシはそれに「イルカ」と名付けた。